きたかぜ

睦月あじさい



 背中がぞくぞくする。黒羽は軽く身震いをしながら息を吸い込んだ。桃の節句も終わり、暦の上ではとうの昔に春の到来を告げているというのに寒さは一向に衰えない。昨日風呂上りに何気に見ていたテレビで、明日になれば寒気団も北上してこの寒さも和らぐだろうと天気予報士が言っていたが、この調子ではそれも当たりそうにないなと黒羽は思う。そんなとりとめもないことを考えながらいつもの帰り道を天根と歩いていると、冷たい北風が正面からほこりを巻き上げて黒羽たちにおそいかかり、二人は思わず立ち止まってしまった。

「……すっげー風」

「うー、今日いつもより寒くねえか?」

「いや、別に。変わんねえ」

「…そりゃおまえ、もこもこしてっからだろ」

 黒羽は呆れた表情を浮かべて天根を見た。寒がりな天根は裏起毛のパーカーを着込み、その上に学ラン、さらにその上にスタジャンまで着込んでいる。それだけでもう十分暖かいだろうと思うのだが、天根には足りないのか首にもぐるぐるとこれでもかと言わんばかりにマフラーが巻かれていた。

「バネさんが薄着なだけ。俺がフツー」

 天根はそう言うが、黒羽は特に薄着でもない。学ランの下にはTシャツとトレーナーを着ており、三月上旬なら妥当な格好だ。佐伯や樹なども似たり寄ったりの服装をしているので、それから見ても黒羽が標準だといえる。しかしここで寒がりな天根に一般論を述べても通用しない。労力の無駄だ。部活で疲れはてこれ以上体力を消耗する気のない黒羽は、早く暖かい家に帰りたくておざなりな返事をした。

「あー、わかったわかった。おまえがフツーで、俺が薄着なわけね」

 襲ってくる寒気に耐えバックを肩にかけ直しながら黒羽は再び歩き始める。しかし一緒に歩いていたはずの天根の足音がしない。振り返って見てみると、俯き加減でその場に立ち止まっていた。さっきの投げやりな返事を聞いてすねてしまったのだろうか。黒羽は面倒くさいことになったなと思いながら天根に声をかけた。

「おい、ダビデ。何してんだよ、早くかえ……」

「薄着なウサギ………プッ」

 黒羽はがくりとうな垂れた。すねていたのではなくダジャレを考えていたのだ、この馬鹿は。黒羽はゆっくりと顔を上げた。天根と視線がぶつかる。何やら身構えているようだが、黒羽はダジャレにつっこむ気になれなかった。だるい。さむい。早く帰りたい。付き合ってられないとばかりに深いため息をついた黒羽はくるりと背を向ける。今度も天根が追いかけてくる気配はないが、黒羽はかまわずすたすた歩いた。その後姿を天根はぽかんとした表情で見送る。しかし黒羽が角を曲がり見えなくなったところではっと我に返ると慌てた様子で追いかけはじめた。そうしてようやく追いつき隣に肩を並べると、黒羽の顔を覗き込むようにしながら怪訝そうに問いかけてくる。

「バネさん」

「……あー?」

「どっか具合わるい?」

「何でだよ」

「ツッコミ、なかった」

「……なんだおまえ、そんなに蹴られたかったのか?」

「違う……」

「じゃあいいじゃねえかよ」

「……やっぱヘン」

「あ?何訳のわかんねえこと言ってんだよ。日本語しゃべれ」

「………ニーズに答えてジャパニーズ……ぷっ」

「…………おら、もういいからとっとと帰るぞ」

 つっこむ気力も無かったのに追い討ちをかけるように再び天根のダジャレを聞かされ、黒羽は歩くのすらイヤになってしまった。このままこの場にしゃがみこみたい気持ちになったが、早く家に帰りたいという気持ちのほうがかろうじて強かったので、残り少ない気力を振り絞って足を動かす。すると突然二の腕をつかまれぐいっと引っ張られた。もちろんそれをしたのは隣を歩いていた天根しかいない。ツッコミがなかったのをいいことに調子に乗ってまだダジャレを言う気だろうか。もうこれ以上疲れたくないと思った黒羽は眉間にしわを寄せながら天根のいる方を振り返り口を開きかける。するとそれをさえぎるように天根の手がおでこに当てられ、なにやら真剣な表情で黒羽に話しかけてきた。

「バネさん。熱、ある?」

「は?ねつ?」

 天根はそう言うが、黒羽に思い当たるふしはない。あえて言うなら少し寒気がするくらいだが、これは気温が低いせいだろう。

「熱なんてねえぞ」

「……んー、これじゃよくわかんね」
 
 手では埒が明かないと思ったのか、天根は置いていた手で前髪をかきあげおでこをくっつけてきた。小学校高学年から熱など出した記憶の無い黒羽は、なんだか面映い気持ちになりながら目線を下に落とし軽く息をつく。

「なに?バネさん、つらい?」

 その様子を見てやはり具合が悪いと思ったのか、天根はおでこを離すと心配そうな顔で様子を伺ってきた。

「いや、大丈夫だ。熱、ねえだろ?」

「……んにゃ。俺より熱い。熱あるよ」

「そうか?べつに頭痛くねえけど…」

「のどは?」

「痛くねぇ」

「なんかへんなとこは?」

「んー…少し寒気がするくらいでべつに………ふ……ふぇっくしょい!」

 そのままの体勢で話していたので、黒羽は天根の顔面めがけて思いっきりくしゃみをしてしまった。一瞬気まずい沈黙が流れる。

「……バネさん」

「………あ、わり。つばかかった」

「べつにいいけど……これで決定。完璧、風邪」
 
「…あーちくしょう、鼻がむずむずしてきたぜ」

「薄着してるからだ」

 天根は教え諭すように言いながらおでこを離すと、黒羽の頬を両手でそっと包み込む。学校を出てから今までずっとポケットに突っ込まれていたその手はとてもあたたかかった。

「ほっぺた、すっげえつめてえし。マフラーは?」 

「持ってねえ………あー、おまえの手あったけー」

 心底冷え切っていた黒羽はその手のあたたかさに思わずうっとりと目を閉じる。この季節にもこもこと着込んでいた天根をどうかと思っていたが、やはりマフラーくらい持ってくればよかったかもしれないなと今頃になって思いなおした黒羽だった。

「そんなんで明日、行けんの?」

「んー?……あー、大丈夫だろ」

 明日は土曜日で午前中は部活がある。そして午後は天根とボーリングに行く約束をしていたのだが、この調子なら今日一晩寝れば治るだろうと思い黒羽は目を閉じたままそう答えた。

「ホントに?」

「俺がウソついたことあったか?」
 
「ない……けど、不安だからおまじない、する」

 おまじない?黒羽はその言葉を聞いて『ちちんぷいぷいバネさんの熱よとおいお空にとんでいけー!』とかなんとか言いながら天根におでこを撫でられるという、中学生にもなってするのもどうかと思われるような行動を連想してしまった。しかし天根の手は変わらず頬を包んだままで、『ちちんぷいぷい』うんぬんの言葉も聞こえてこない。不思議に思った黒羽が目をあけようとしたそのとき、唇にふにゅっと柔らかい何かが触れた。驚いて目を開けると、目の前にはピンボケした天根の顔がある。

「バネさんのくしゃみが止まりますように」

 天根はそう言ったあと、今度は背伸びをして黒羽のおでこに触れた。黒羽は抵抗もせずその唇を受ける。

「熱が下がりますように」

 かかとを下ろし目線を合わせた天根は、かすかに微笑みながらそう呟いた。

「…………」

 黒羽は驚きのあまり言葉も無かった。それもそのはず、ここは天下の往来。外人じゃあるまいし、公衆の面前で恥ずかしげもなくこんなことをしてくる天根の神経がわからない。この男には羞恥心というものはないのだろうか。黒羽は慌ててあたりを見回した。人影は見当たらない。そのことにほっとした黒羽はとりあえず何か言ってやらなくては気がすまないと思い、わずかに頬を赤らめながら相手をキッとにらみつけた。

「……おっまえ、なにしてくれやがる」

「おまじない」

 当然ですといわんばかりの態度で天根は言う。黒羽はなんだか頭がくらくらした。やはり思ったとおり羞恥心など持ち合わせていないようだ。

「これがかよ?」

「うぃ。ぜってー治る。俺のまごころと下心こもってるから」

「はあ?したごころ?」

「だってバネさん、目つぶったままうっとりしてた。んなの見たらキスしたくなるに決まってる」

 たしかに『目を閉じてうっとり』してしまったかもしれないが、それは狙ってやったわけではなく結果そうなってしまっただけ。天根の言っていることは黒羽にとって言いがかりもいいところだ。ダジャレ(二発)におまじない(キス。しかも外)―――ふんだりけったりとはこのことを言うのだろうか。黒羽はなんだかもう本当にどうでもいい気分になった。

「……決まってねえよ…つうかそーいうのは外でするな。我慢しろ」

「バネさん、やだった?」

「だから、やだとかそんな問題じゃねえ……場所考えろって言ってんだよ。恥ずかしい」

「ごめん……」

 天根は一言そう呟くと、頬から手を離し自分の首に巻かれていたマフラーをはずして黒羽の寒そうな首元にぐるぐると巻きつけた。ふわりと整髪料のかおりが黒羽の鼻をくすぐる。天根の体温をもったそれは頬を包まれたときと同じようにあたたかなぬくもりを与えてくれた。

「バネさんがイヤなら、もうしない」

 心持ち眉根をよせ黒羽の目を見つめたまま天根はきっぱりと言い切る。あまり表情の変化がないので何をどう思っているのかわからないとよく言われる天根だが、黒羽は目を見ればたいていのことがわかった。そしてその結果、これはウソをついている目ではないと判断する。それならこれ以上とやかく言う必要はない。黒羽は鼻先までぐるぐる巻きにされていたマフラーを少し下げ、ぷはっと一息つくとかすかに笑みを浮かべながら言った。

「わかったんならいい……おら、帰るぞ」

 黒羽は肩をポンと叩くと進行方向を振り返った。するとその時、目の前の景色がぐにゃりと歪んで足がもつれた。完全にバランスを失った黒羽の上体がななめに傾き今にも転びそうになる。しかしそれを見ていた天根がとっさに腕をつかんで倒れこむのを未然に防いだ。地面とお友達にならなくてすんだ黒羽は冷や汗をかきながらほっと安堵のため息をもらす。

「……あっぶね。ダビデさんきゅな」

「うぃ。ふらつくのめずらしい」

「あー、自分でも驚いた。やっぱ結構きてんのかもなあ……」

「バック。ななめにかければ?」

「ん。そうだな」

 先ほどから何度か黒羽が肩にかけなおしているのを見ていた天根は、そうアドバイスする。黒羽も言われてみればそのほうが楽だと思い、バックをたすきがけにかけなおし再び歩き始めようとした。すると突然目の前に天根のバックが無言で差し出される。その不可解な行動に黒羽は眉をひそめた。

「?」

「これ、持って」

 黒羽の体を気遣うようなそぶりとはうらはらに、天根は自分のバックを持たせようとする。こいつはいったい何を考えているのだろうか。黒羽はバックと天根の顔とを交互に見ながらますます不可解な表情を浮かべた。しかし天根はその表情を気にすることなく、無理やり自分のバックを黒羽の持っているバックとは反対側になるようにたすきがけに持たせる。いつもの黒羽ならバックをふたつ持つくらいわけもないことだ。ついこの間も帰る道すがら荷物もちじゃんけんで大負けし、その場にいた五人全員のバックを持って帰ったのだ。それに比べたらこれしきの量などたいしたことはない。だがいかんせん今日は体調がおもわしくない。重さが同じくらいでバランス的には良いせいかよろけるということはなかったが、二つに増えたバックが両肩にずしりと重くのしかかり、黒羽は反射的に眉をひそめた。歩きづらいことこの上ない。

「うし。これでおっけー」

「おっけーって……おまえなあ、病人の体に鞭打つのかよ」

「違う」

 天根は黒羽の言葉をきっぱりと否定すると、くるりと背を向けて中腰になりうしろを振り返った。

「バネさん。両手、俺の首にまわして」

 バックを持たせたと思ったら、今度は両手を首にまわせと言う。黒羽は天根が何をしたいのかまったくわからず首を傾げた。

「は?なんで」

「いーから。早く」

 その言葉にせかされ訳もわからないまま黒羽は天根の背中から覆いかぶさるようにして両手を首にまわした。

「おら、まわしたぞ。いったい何する……おわっ!?」

 言われるがまま首に手をまわしたそのとき、黒羽の足が地面から離れ体が宙に浮いた――わけではない。中腰の姿勢をとっていた天根が、黒羽の太ももをしっかりと抱え込んで体ごと持ち上げたのだ。俗に言う『おんぶ』の体勢である。予期せぬ出来事に驚いた黒羽は思わず上体をのけぞらせた。そのせいでバランスを崩しかけた天根は黒羽を背負ったまま足元をふらつかせる。

「な、なななんだ!?」

「のわっ!バネさん、暴れんな」

「わわわっ!!」

 黒羽は慌てて天根の背中にしがみついた。天根も低い姿勢をとり足幅を広げて何とか持ちこたえる。とりあえずバランスを持ち直した天根は、ふうとため息をつくと背負った黒羽をかかえなおして上体を起こし後ろを振り向いた。

「……俺がおぶって帰るから、バネさんはじっとしてろ。でないと転ぶ」

「おぶってって……まじかよ?」

「まじ」

 天根はきっぱりそう言いきると、前に向き直り歩き出そうとした。しかし自宅までの距離は一キロ弱。ただ歩くだけならたいしたことのない距離だが、人一人背負ってとなると話は違ってくる。黒羽の体重は73キロ。それプラス二人の荷物を足すと総重量約80キロになるわけだから、罰ゲームで次の電柱までとかならまだしも、自宅までとなるといくら体力・腕力自慢の天根でもちょっと無謀すぎやしないだろうか。そう思った黒羽は慌てて天根の注意をもう一度自分に引き戻した。

「ちょ、ちょっと待て!」

「いてっ!ちょ、バネさん髪ひっぱんな」

 いつの間につかんでいたのか、気がつくと黒羽は天根の髪の毛をぐいぐいと引っ張っていた。言われて初めてそのことに気づいた黒羽は、ぱっと手を離すと今まで引っ張っていた髪の根元に指の腹を当て、軽く何度か撫でてやる。

「あ、わり」

「……で。なに?」

「おまえ、大丈夫なのか?80キロだぞ、80キロ」

「石のかたまり80キロならやだけど、バネさんならへーき」

 天根はそう答えると再び足を前へと踏み出した。普段テニスで鍛え上げられているその腕は黒羽の太ももをかかえこんでおり、ずり落ちないように腰骨の上でしっかりと固定されている。黒羽が背中に密着していることもあって安定感があるのか、その足取りは言葉どおりたしかなものだった。はじめ不安を覚えた黒羽も、それを見て安心し体に入っていた余分な力を抜く。正直歩くのがきつくなってきていたところだ。黒羽はこの際天根の好意に甘えさせてもらうことにした。

「そっか。んじゃ家まで頼むわ」

「うぃ」

「きつくなったら言えよ。おりるから」

「……ぜってー言わねえ」

 こうして黒羽は天根に背負われるという今までに経験したことのない帰宅方法で家へと帰ったのである。



 そして翌日。

 帰ってすぐ布団にもぐりこんだのが幸いしたのか、黒羽は宣言どおり一晩で熱を下げた。しかし今度は天根が39度の高熱を出して寝込んでしまった。黒羽の風邪がうつったのか、普段使わない筋肉を酷使したため発熱したのか――原因はわからない。



●おわり



○この二人、熱が出たらおでこで測ると思います。鳳宍だと宍戸さんはおでこ派(?)で、長太郎は具合の悪い宍戸さんを見たら速攻ダッシュで病院、もしくは保健室。柳生仁王だと柳生が常に体温計を常備してます。うちのは変態ですから。ごめんなさいね。 /睦月あじさい(05・3・31)
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