ハッピーランチ ― 鳳の受難 ―
睦月あじさい




 教師の都合で四時間目の授業をいつもより早めに終えた鳳が、朝練終了後に宍戸と昼ごはんを食べようと約束した屋上へ行くために机の上を手早く片付けていると、それに気付いたクラスメートが不思議そうに話しかけてきた。

「あれ?何急いでんだ、鳳。お前弁当組だろ?」

「今日は屋上で食べようって、朝、宍戸先輩と約束したんだ」
 
 ニコニコと嬉しそうに笑いながら、鳳はサブバックにしまってあったランチバックを取り出す。

「宍戸先輩?…あー、テニス部の先輩か」

 鳳の言った人物に心当たりがあったのか、クラスメートはなるほどといった様子で頷いた。

「うん、だから早く行かないと。待たせたら悪いし」

 氷帝学園は、一階が三年生、二階が二年生、三階が一年生と学年ごとに階が分かれており、距離的に言えば二年生の方が屋上に近い。しかも今日、鳳のクラスは通常よりも早めに授業を終えているので、チャイムが鳴ってから移動したとしても一階にいる三年生に遅れを取ることはないと思われた。しかし少しでも早く宍戸に会って一緒に過ごしたいと思っている鳳は、必要もないのについ急いで支度をしてしまうのだった。
 それほどまでに宍戸のことを思っているのなら、授業も早めに終わって時間に余裕もあることだし、相手の授業が終わる頃合を見計らって迎えに行けばいいだけの話なのだが、それは鳳には出来なかった。迎えに行くのは一緒にいたいと思う自分の『ワガママ』であって、宍戸にとって迷惑になるかもしれない――そう考えたからだ。
 そこで鳳は宍戸よりも先に着くように屋上に行くことにした。それなら自分が先に着くことで宍戸と一緒に過ごす時間が少しでも長くなるし、相手にも迷惑はかからない。それに、好きな人のことを考えながら待つ、というのも幸せな気持ちになれるのだということを鳳は知っていた。その思いが滲み出ていたのか、幸せそうに笑いながら受け答えする鳳を見て、クラスメートは訳のわからないといった表情を浮かべた。

「……お前も物好きだよなぁ、昼飯まで先輩と一緒に過ごすなんて。男テニって負けた奴は即レギュラー落ちっつうくらい厳しいじゃん?そんな殺伐としたクラブの先輩と飯なんて、俺なら絶対やだけどな」

「殺伐って……結構仲良くやってるよ?レギュラーみんなでよく一緒に帰ったりするし。先輩達もいい人ばっかりだと思うけどなぁ」

 相手の言葉を聞いて、鳳は思わず苦笑いをもらした。『負けたら即レギュラー落ち』という監督の方針が、殺伐などという印象を部外者にあたえてしまっているのだろうが、実際は鳳の言うとおり、和気藹々とやっている。

「ふーん、そうは見えねーけど…。ま、お前がそう言うんならそうなのかもな。中にいる奴にしかわかんねーこともあると思うし―――でもお前案外ぼけてっから、嫌がらせとかされても気づいてないだけかもしんねーぞ?」

「むっ。俺そんなに鈍くないぞ」

 クラスメートが意地悪く笑いながら言った言葉に、鳳は少し口を尖らせてむっとした表情を浮かべた。身長180強、手足の長いバランスの取れた姿態に色素の薄い髪と整った品の良い顔立ち。それに加え、おっとりとした人当たりのよい性格から、学園内の生徒(主に女子)に『王子様』という、なんとも乙女チックなあだ名でひそかに呼ばれているのだが、こうして口を尖らせて文句を言うさまは、ただの拗ねている子供にしか見えなかった。

「まーまー。王子がそんな顔しないの。女子が見たら泣くぞ?…あー、でも『そんな子供っぽい鳳くんも可愛い!』って母性本能くすぐられるやつもいるか」

「はあ?王子ってなんだよ?て言うか、母性本能って……話が全然見えないんだけど」

「ぶっ!!――なんだ、やっぱお前ボケボケじゃん」

「ボケボケって……」

 クラスメートの言葉が理解できず、鳳は首を傾げながら不可解な表情を浮かべる。それも仕方のない話で、鳳は影で自分が『王子様』と呼ばれていることを知らないし、ましてや無意識にしてしまう子供っぽい行動や仕草が、彼女達のいわゆる『母性本能』と言うものをくすぐっているとは露ほども思っていなかった。

「そんなんで『鈍くない』って言われても説得力ねーよ。つーかお前、急いで屋上行くんじゃなかったっけ?こんなとこで時間食ってたら遅れるんじゃねーの?」

 鳳の反応を見ていたクラスメートは、思わずといった様子で吹き出したあと、笑いを噛み殺しながら自分の言いたい事と、鳳が今しなければならない事を立て続けにぽんぽんと言い放つ。

「うわっ、やべっ!!教えてくれてありがと!」

 相手の言葉を聞くや否や、鳳はランチバックを手にすると、礼を述べながらも慌てた様子で教室を飛び出していった。その場に取り残されてしまったクラスメートは、呆気に取られた表情で鳳を見送りながらポツリと呟いた。

「……いや、そこは普通怒るとこだろ」

 全くもってその通りなのだが、当の本人の優先事項は『自分がいかに鈍くないかを証明すること』よりも『宍戸とのランチタイム』なので、一瞬忘れていた大事な事を思い出させてくれたクラスメートに感謝の言葉を述べるのは、鳳にとって当然のことだった。








 慌てて教室を飛び出したはいいものの、周りのクラスはまだ授業中で、廊下は人けもなく静まり返っている。いくら自分達のクラスが授業を終えたとはいえ、廊下をバタバタ走ると迷惑になると思った鳳は、なるべく足音を立てないように気をつけながら早足で廊下を横切り、屋上に続く階段を三段飛ばしにしながら駆け上った。

『まだチャイム鳴ってないから、大丈夫だよな』

 そう思いながら階段の踊り場まで来た鳳が何気なく目線をあげると、視界に入ってきたあるものに気づいてふと足を止め思わた。

「あ」

 いつもは閉まっているはずの屋上へと続く扉が少し開いている。風が吹いているのか、その扉はゆっくりと開いたり閉じたりを繰り返しており、それと同時に雨風に晒されて立て付けの悪くなった蝶番が少し耳障りな音を立てていた。

「……宍戸先輩っ!!!」

 一瞬呆けてしまった鳳はその音を聞いてハッと我に返り、階段を一気に駆け上るとその勢いのまま扉を開けた。蝶番が鳳の乱暴な扱いにたいして不満を訴えるようキイキイと音を立てる。しかしその音も耳に入らないのか、鳳は開いた扉もそのままに屋上へと足を踏み入れた。辺りをきょろきょろと見回してみるが、目当ての人は見当たらない。柵の向こうに教室から見えるのとは少し趣の違った景色が広がるだけで、屋上には人っ子一人いなかった。

「……あれ?」

 扉が開いていたのでてっきり宍戸が来ているのかと思った鳳だったが、やはり勘違いだったようだ。

「なんだ…やっぱりまだ来てないや」

 鳳はそう呟くと、宍戸よりも先に到着したことで胸をなでおろしつつも、会えなかった寂しさに表情を曇らせ、幾分肩を落としぽりぽりと頭をかいた。一応念のためと思い屋上をぐるりと一周してみるが、やはり宍戸はいない。扉が開いていたという、ただそれだけの理由で相手が来ていると勘違いしてしまった鳳だったが、授業終了を告げるチャイムがまだ鳴っていないのだから、宍戸がいないのは当たり前のことなのだ。
 おっちょこちょいなところもあるが、鳳はどちらかというと慎重に物事を考えて行動するタイプの人間だ。てきぱきとまではいかないが、何が起きても慌てず、臨機応変に対処できる。だからたとえ扉が開いていたとしても、いつもの鳳ならそれだけで勘違いなどしない。しかし恋する者の悲しいさだめなのか、相手が宍戸となると途端に冷静な判断が出来なくなり、このような早とちりをしてしまうのだった。もし扉さえきちんと閉まっていれば、鳳も勘違いすることなく、宍戸を思いながら大人しく待っていられただろう―――それも今となっては後の祭りなのだが。
 
「はぁ……」

 鳳は自分の行動を振り返り、己の余裕の無さを改めて知り反省する。もう少し落ち着いて行動しようと胸に手を当て、今はシャツの下に隠されている祖母の形見のロザリオを手のひらに感じながら、祈るように目を閉じた。
 敬虔なクリスチャンではないが、こうしていると大好きだった今は亡き祖母のあたたかいぬくもりを思い出し、不思議と落ち着いてくる。ついさっきまで弾んでいた鼓動もすっかり落ち着きを取り戻し、ひとごこちついた鳳の耳にも次第に周りの音が戻ってきた。
 風に揺られ、緑がさわさわと涼やかな音色を奏でている。しかしその中に金属がこすれ合うような機械的な音が混じっており、鳳は違和感を覚えた。ゆっくりと瞼を開け音の鳴る方を振り返る。するとそこには開け放たれたままの扉がゆらゆらと風に揺られていた。

「…あ」

 鳳は思わず声を上げる。宍戸のことで頭がいっぱいになっていたため、扉を閉めるどころかその存在そのものをすっかり忘れていたのだ。わずかに頬を染めた鳳は、眉をハの字に下げながら開けっ放しになっていた扉に近寄り、ドアノブをそっと握ってなるべく音が立たないよう静かに動かすと、苦笑いを浮かべながらポツリと呟く。

「バカ…だよなぁ……」

「――誰が『バカ』だって?」

 鳳は驚きのあまり危うく心臓が止まりそうになった。誰もいないはずの背後から突然声が聞こえたからだ。しかもその声は自分の大好きな人――宍戸の声で。その声を聞いた鳳は思わず手を滑らせてしまい、扉は結局耳障りな音を立てて閉められることとなった。

「宍戸先輩!?」

 慌てふためいて背後を振り返るが、宍戸の姿は無い。空耳だったのだろうか。きょろきょろとせわしなく辺りを見回したが、やはり誰もいない。

「なーにきょろきょろしてんだ?鳳」
 
 もう一度、今度は後ろの頭上から声が聞こえた。少し掠れた特徴を持つその声。しかも自分の名前まで呼んでいる。間違いない。宍戸の声だ。聞こえたのが一回きりなら、宍戸のことを思うあまりに自分の脳が引き起こした幻聴とも思えるが、二回も聞こえたのだ。大好きなあの人の声を、聞き間違えるはずが無い。

「し、宍戸先輩!どこですか!?」

 素っ頓狂な声を上げて振り返った鳳の目の前には、今しがた自分が閉めた扉があるだけで、その間に人の入れる隙間など無い。もしかしてこの扉の向こうに宍戸がいたのに気付かず、閉めてしまったのだろうか。そう思い至った鳳は、慌てた様子でドアノブに手を伸ばしかける。

「…バーカ、どこ探してんだよ。上だ、上」

「上???」

 その声に言われるまま、鳳は頭上を振り仰ぐ。扉のある建物の上、そこで宍戸は下を覗き込むようにしてしゃがみ、呆れた表情を浮かべて鳳を見下ろしていたのだった。屋上を一周して辺りを探したつもりだったが、よもや宍戸がそんな所にいるとは思いもしなかった鳳は、鳩が豆鉄砲を食らったような表情で相手を見つめている。

「…お前、なんつー間抜けな顔してんだよ。つーか、もうチャイム鳴ったのか?」

 宍戸は目を擦りあくびをしながら鳳に尋ねてくる。その眠たげな仕草からは、今まで寝ていたことが察せられた。腕を枕代わりにしていたのか左腕にはコンクリートの痕が見て取れ、手首の少し下の辺りが真っ赤になっている。その場所を痛そうだなと思いながら見つめていた鳳は、答えるのに一瞬反応が遅れてしまった。

「……え?いえ、まだ鳴ってないですけど」

「そっか。じゃなんでお前ここにいんの。サボりか?」

 枕にしていたせいで左腕が痺れているのか、宍戸は腕を振りながらからかうような眼差しを向ける。その言葉に鳳は慌てて首を横にぶんぶんと振った。

「ち、違いますよ!俺のクラス四時間目が早く終わったんでここに来たんです!」

「ふーん。ま、考えてみりゃ優等生のお前がサボるわけねーか」

「…別に、優等生じゃないです。それよりも宍戸先輩こそ、いつからそこに?」

「んー、チャイムが鳴って20分位だったか?時計見てねーから正確にはわかんねーけど」

「え!?」

 鳳は驚いた。褒められた行動ではないにせよ、休み時間からここに来てさぼることは可能だ。しかし授業の真っ最中に教室を抜けてくるのは到底無理のように思える。なのにそれを宍戸はやってのけたというのだろうか。 

「…いったいどうやって教室出てきたんですか?」

「どうやってって、普通にドア開けて」

 宍戸にはやましいところなど何も無いのか、その質問にも当たり前と言った様子で平然と答えている。ここまで堂々とされると、授業をサボることをよしとしない鳳にも返す言葉が見つからなかった。
 一方こうして話している間に手の痺れが取れたのか、宍戸は左手を握ったり放したりして感覚が戻っていることを確かめ、昼食が入っていると思われる紙袋を掴むと、左腕を支えに軽やかな身のこなしで鳳の横に飛び降りた。瞬間、宍戸の黒髪が風にあおられてふわりと舞い上がり、太陽に照らされてキラキラと輝きながら鳳の目に鮮やかな残像をあたえる。その体重を感じさせない猫のような動きと、つややかな黒髪に目を奪われた鳳が呆然と立ち尽くしていると、どこからともなく花の香りがした。

「…………」

「鳳?」

 急に黙り込んだ鳳を訝しげに思ったのか、宍戸が小首を傾げて覗き込んできた。鳳は突然至近距離に宍戸の顔があらわれたことに驚き、返事も返さずにその顔に見入ってしまう。
 切れ上がった瞳は先ほどあくびをしたせいで涙が出たのか幾分潤んでおり、睫毛が濡れてキラキラと光っている。癖のない黒髪が風に揺られて柔らかそうな頬を撫でていき、また花のような香りが鼻孔を掠めた。その瞬間、鳳ははっと我に返り自分の顔が赤くなっていくのを感じた。

『黙り込んだ上に顔まで赤くしてたら、絶対変に思われる!!』

 そう思った鳳だったが、意識して押さえようとしてもどうにかなるものではない。何とかこの場を取り繕おうと、鳳は多少言葉に詰まりながらも返事を返した。

「いや!あ……暑いですね!」

 しかし出て来たのはお粗末なほど間の抜けた言葉で。それを聞いた宍戸は首を傾げてますます怪訝な表情を浮かべた。

「暑いか?確かに天気はいいけど風吹いてっし、俺にはちょうどいいくらいだけど…お前には暑いのかもな。走ってきたのか?顔、赤くなってんぞ」

「え、あ?……っと、そ、そうなんです!」

 真実は全く違うのだが、鳳はこれ幸いとばかりに宍戸の言葉にこくこくと頷きながら返事をした。それを見た宍戸は少し呆れた様子でくすりと笑う。

「そんな必死こいて走ってこなくても、チャイムまだ鳴ってねーんだろ?時間はたっぷりあるだろうが」

「う。それはそうですけど…」

「それともなんだ、お前よっぽど腹減ってて、それで待ちきれなくてここに走ってきたのか?」

 待ちきれずに早々と鳳が現れたのは事実だが、それはお腹が空いていたからではない。宍戸に早く会いたい。それが本当の理由だった。

「うー、あー…」

 鳳は困った。宍戸の言っていることはあってる部分もあれば間違っている部分もある。こういう場合はどう答えればいいのだろうか。

「で、その慌てっぷりからして、この俺を差し置いて先に飯でも食おうとしてたのか?……お前もなかなかやんじゃねーか」

 その様子をばつの悪い肯定の返事と捉えた宍戸は、ニヤリと人の悪い笑みを口元に浮かべながら目を細めて鳳を見ている。それを聞いて鳳は零れ落ちんばかりに目を見開いた。

「ち、ち、違います!誤解です!!」

「違う?何が違うんだよ」

「俺、そんなにお腹空いてないです!」

「あぁ?じゃあ、何でそんなに急いで来たんだ?」

「それは…その、えっとですね……」

「…なんだよ、ハッキリしねー奴だな。男ならビシッと言え!ビシッと!!」

「はいっ!宍戸先輩に早く会いたかったからです!」

 宍戸の剣幕に押された鳳は、売り言葉に買い言葉のような勢いで思わず本音を口走ってしまった。その言葉を聞いた宍戸は、目を見開いたまま黙って鳳の顔を見つめている。

『しまった!!』
 
 我に返った鳳は、耳まで真っ赤に染めて俯いてしまう。覆水盆に返らず。時間を遡ることが出来るなら、鳳は自分の口を両手で封じたかったが、そう念じたところで今更口から出た言葉が消えてなくなるわけもなかった。
 鳳は宍戸のことが好きだ。しかしその思いは告げていない。宍戸のそばにいられる、それだけでよかったからだ。
 学年が違うにもかかわらずこうして昼食を共にするくらいなのだから、宍戸も自分の事を少なからず気に入ってくれているのだろうとは思う。だが、今の発言を聞いて宍戸はどう思っただろうか。小さな子供や女の子ならともかく、中学二年で身長180cmを優に超えている男が、『早く会いたかった』と言って顔を真っ赤にして俯くなんて。気持ち悪いと言うほかない。多分宍戸もそう思ったのだろう。鳳は下を向いてしまったため相手が今どんな表情をしているのか解らないが、あたりには変わらず沈黙が流れている。

『こんなことになるなら、あの時お腹が空いていたことにすればよかった』

 鳳は自分のあまりの馬鹿さ加減に涙が出そうになる。しかし今は泣いている場合ではないし、そうしたところでこの現状がどうにかなるわけでもない。鳳は目をぎゅっと瞑った。宍戸との関係をこんな形で終わらせたくないのなら、自力で何とかしなくては。胸に手を当てた鳳は、服越しにロザリオの感触を確かめながら口を開きかけた。

「……あのっ」

「なんだ、それだけか」

 意を決して鳳が出そうとした言葉は、今まで黙り込んでいた宍戸によってあっさりと遮られた。驚いた鳳は慌てて頭を上げて相手をまじまじと見るが、その顔には拍子抜けしたような表情しか見られない。嫌悪に歪んでてもおかしくはないのだが、そんな様子はかけらもなかった。

「………は?」

 色々な言葉が渦を巻いていた鳳の頭の中は、一瞬にして真っ白になる。

「『は?』じゃねーよ。お前があんなおたおたしてっから何かと思えば……たかだかそんだけのこと、何ですぐ言えねーんだ?」

 宍戸は頭をがしがしと掻きながら反応の鈍い鳳を見ている。鳳の方はと言えばまだ頭が飽和状態で、上手い具合に思考が追いついていかない。

「え……でも……」

「でももくそもねえ。そんなに早く会いたいなら、教室に来ればいいだけだろうが」

 鳳はその言葉を聞いて息を呑んだ。自分は白昼夢でも見ているのだろうか。人間は極限状態におちいると、そこから逃げ出すために意識を無くすことがときどきある。あの出来事のあと、実は自分も現状から逃避するために意識を失ってしまって、その間にこんな己の願望が混じった夢を見ているのだ。そうだ、きっとそうに違いない。 鳳はそんなことを考えながら宍戸の顔を瞬きもせず見つめていた。すると宍戸の手が鳳の額の前にすっと持ち上げられ、中指を親指に引っ掛けて弾く形を取りだした。ぼうっと突っ立ったまま何の反応も返さない自分の態度に焦れた宍戸がデコピンをするつもりなのだろうが、これは夢なのだから当たっても痛くない。

 ビシッ

「いてっ!!」

 額に鋭い衝撃が走り、鳳はあまりの痛さに顔を顰めた。おかしい。夢のはずなのに、なぜこうも痛いのだろうか。不思議に思いながら鳳はゆっくりと手を上げてその場所に触れてみる。すると指で軽く触れただけのそこは、じんじんとした痛みを訴えてきた。

「い…たい…?」

 ということは、これは夢ではなく現実?
 鳳がぱちぱちと何度か瞬きをしていると、目の前の宍戸が軽くため息をついていた。

「手加減なんかしてねーから当たり前だ。ったく、ぼーっとしやがって……お前人の話聞いてんのか?」

 呆れた表情を浮かべた宍戸は、鳳の反応の鈍さに対して文句は言っているものの、口調がきつくないので怒っているわけではないようだ。しかしまだ多少混乱気味の鳳はきちんとした返事が返せず、聞こえたままの言葉を繰り返すことしか出来ない。

「教室に来ればいいって…」

「なんだ。聞こえてんなら返事ぐらいしろよ」

 宍戸もあっさりとしたもので、自分の話をきちんと聞いていたことがわかるとそれ以上深くは追求してこなかった。一方今まで混乱していた鳳も、額の痛みと宍戸の言葉によってこれが夢ではなく現実に起こっていることなのだとわかり、じわじわと嬉しさが込み上げてきたのだったが、それまでに相手に対して曖昧な反応を取ってしまったことにはたと気づき、慌てて頭を下げた。

「す、すみません…でも宍戸先輩、迷惑じゃないですか?」

「あ?何でだよ」

「その…俺が教室に行っても」

「別にかまわねーよ。お前の好きにすりゃいい……あー、でも今日は無理だったな。途中で教室抜けて来ちまったから」

 そういえば宍戸は最初にそんなことを言っていた。その時の悪びれるでもなく堂々と言ってのけた宍戸の度胸の良さと、それに付け加えて口悪く言ってはいるがワガママとも取れる行動を容認する度量の広さに鳳は改めて感心する。
 サボること自体したことがないのではっきりとは言えないが、授業中に教師の目を盗んで抜け出し、あまつさえそのことを人に聞かれても宍戸のように平然と振舞うことは自分には出来ないだろうし、鳳自身度量が広いと言われたこともあるが、それは押しに弱い性格が何でも受け入れているように見えるだけであって、実際そんな立派なものではない。
 宍戸のように度胸もあり度量も広い中学生なんて、世の中探してもそうはいないだろう。

「…すごいなあ」

「すごいって、何が」

 宍戸が首を傾げながら尋ねてくるのを聞いて鳳は慌てた。思っていたことが無意識のうちに口から出ていたようで、それを宍戸に聞かれたらしい。

「えっと、宍戸先輩みたいなこと、俺には出来ないなあって。教室を抜け出す時点で見つかっちゃいそうですし…」

「見つかるって、誰に」

「先生にです」

「はぁ?見つかるもなにも……課題採点してもらって満点じゃねーと教室出て来れねーからなぁ」

「課題?満点??」

 宍戸の答えを聞いた鳳は頭の中がクエスチョンマークで一杯になる。授業で課題?満点じゃないと教室を出れない?授業中なのにありえない言葉ばかりが出てきている。

「ああ。四限の授業が………」

 キーンコーンカーンコーン

「お。今チャイムか」

 タイミングがいいのか悪いのか、宍戸が何かを言う前に四限終了のチャイムが校内に鳴り響いた。

「さーて、んじゃ飯でも食うか…って、鳳?どーした」

 大きく伸びをして体をほぐしていた宍戸だったが、なにやら考え込んでいる様子の鳳に気づいて不思議そうな顔をしている。

「いえ、ちょっと……何だかわからないことだらけで…」

 先ほどの宍戸の発言について色々と考えてみた鳳だったが、考えれば考えるほどわからなくなり、返事も歯切れの悪いものしか出て来ない。それを見た宍戸はますますわからないといった様子で眉根を寄せた。

「わからない?んな難しい話してねーぞ」

「難しいと言うか…先生が課題を出して、満点取ったら授業受けずに出てきていいって、なんか変だなって……」

「授業受けずに?…ははぁ。お前なんか勘違いしてんな」

 鳳の返事を聞いてぴんときたのか、宍戸は顎に手を当てながら上目遣いで相手の顔を見た。その表情に内心ドキドキしながらも、内容の方が気になった鳳は慌てて問い返す。

「え?勘違い……ですか?」

「ま、それは飯でも食いながら話してやるよ。とりあえずあっち行こうぜ。ここで突っ立ってんのもバカみてーだし」

「あ、はい」

 宍戸がそう言って返事も待たずにさっさと歩き出すのを見て、鳳もそれを追うような形で扉のある建物の影へと足を向けた。








 建物を背にして二人並んで地べたに座りこみ、昼食を取りながら宍戸が先ほどの勘違いの原因になった話を説明してくれた。
 宍戸のクラスは教師の都合で四時間目が自習になったらしい。そこでそのあいた時間を教師が無駄に過ごさせるわけもなく、生徒達の学力測定も兼ねてテスト形式の課題が出されたそうだ。全部で50問にもわたるその課題は、宍戸曰くほとんど基礎的な問題ばかりで、授業を真面目に受けているものであれば短時間で簡単に解ける問題だったという。そしてその課題が終わった者から順に、自習監督である代理の教師に提出して採点してもらい、その結果満点であれば残りの時間は他の生徒の邪魔をしないという条件付で自由にしていい、ということだったそうだ。そこで得意教科が運良く歴史だった宍戸は、さっさと課題で満点をたたき出し屋上まで来た――つまりはこういうことだったらしい。

「―――とまあ、こういうわけだ。わかったか?」

「はい…なんか俺、とんでもない勘違いしちゃってたみたいで……」

 宍戸の説明を聞いた鳳は、申し訳ない気持ちで一杯になった。

『話もろくに聞かずに、はなからサボりだと決めつけてしまうなんて……なんて失礼なことをしてしまったんだろう』
 
 鳳は自己嫌悪におちいり、相手の顔もまともに見ることが出来なかった。その様子を宍戸は片眉を吊り上げながら横目で見ている。

「俺が授業途中で抜けてきた…ってか?」

「す、すみません……」

 鳳は大きな体を縮みこませるように肩を竦め、心底申し訳なさそうに謝った。その滑稽ともいえる様子を見た宍戸は、目を細めクスリと笑う。

「ばーか、あやまんなよ。実際そーいうことやったことあるし。今回は違ったけどな」

「…本当にすみませんでした」

「だーからあやまんなって言ってんだろーが。あの状況でちゃんと説明しなかった俺も悪い。お前が勘違いすんのも仕方ねーだろ」

 勘違いしていたことを責めるわけでもなく、逆に自分も悪かったと言って相手を慰める宍戸の懐の広さに、鳳はただただ恐縮するばかりだった。

「はぁ……」

「んなしょぼくれた顔してんじゃねーよ。せっかくの飯も不味くなるだろうが……ってお前、全然食ってねーじゃん。腹へってねーのか?」

 説明をしながらも宍戸はきちんと昼食を取っていたようで、大判のバンダナに包まれていた母親のお手製であろうかなりの量のサンドイッチはあらかた無くなっている。一方鳳の方も母親が丹精込めて作ったと思われる、いろどりも鮮やかなお弁当を食べていたはずなのだが、所々箸はつけてあるもののつまんである程度で、ほぼ原型を留めていた。

「空いてはいるんですけど…なんかこう、胸がいっぱいで…」

「……鳳」

「はい?」

 宍戸の呼びかけに鳳がゆっくりと振り返ると、視線がパチリと合った。その表情はいたって普通で何の感情も読み取れないのだが、自分がうじうじとしているせいで怒らせてしまったのだろうかと鳳は不安になる。

「口開けろ」

 視線をそらさぬまま、宍戸はそれだけしか言わなかった。相手の意図が全く読めない鳳は、不思議そうに首を傾げる。

「え?何で…」

「いーから。つべこべ言ってねーで、目一杯口開けろ」

 有無を言わせぬ口ぶりで促す宍戸に、訳のわからないまま鳳は言われたとおりに口を開ける。するとその直後、宍戸の手によって口一杯に白くて柔らかいものが放り込まれた。

「んむっ!?」

 突然口を塞がれた鳳は呼吸が出来なくなり、驚きで目を白黒させてしまう。

「バカ、落ち着け!口じゃなくて鼻で息しろ、鼻で!」

 鳳の口に突っ込んだものの反対側を持ったまま、宍戸は慌てた様子で再度促す。言われた鳳も相手の言葉に従って、いったん息を止めてから鼻で呼吸するようにした。

「…そうだ。そのままゆっくり噛んで、飲み込め」

 それを確認した宍戸は、手を離しながら小さな子供に言い聞かせるように優しい声音で語りかける。息が出来るようになって落ち着いてきた鳳も、相手に言われたとおりに口をゆっくりと動かしはじめた。 ふわふわとした柔らかい歯ざわりのそれは、噛み締めると仄かな甘さを鳳の舌に与えた。それと同時にバターの風味と、マヨネーズやコショウなどが絶妙にブレンドされた卵の風味が口の中に広がり、滑らかな触感を与えながら舌の上でするりと溶けていく。その瞬間、鳳は自分が何を口にしたのかを知った。

『これって、玉子サンド?』

 宍戸が見守る中、すべてが鳳の口の中に収まった。もぐもぐと咀嚼し、ゆっくりと嚥下するまで見届けた宍戸は、おもむろに片手を上げると鳳の頭の上に手を置いて満足そうに頷く。

「よし、食ったな。美味かったか?」

 その言葉に鳳はコクリと頷いた。それを見た宍戸は口元に笑みを浮かべると、よく出来たといわんばかりに手をわしゃわしゃと動かして鳳の髪の毛を乱す。

「そっか。んじゃその勢いで今のうちに食っちまえ」

 何の前触れも無く行われた宍戸の行動は、お腹は空いているものの食欲のわかない鳳を見かねて取られた善意からなる行為だった。まあ多少乱暴だった感はあるが、鳳は男なのでそれも許されるだろう。

「あ…はい!」

 昼食を広げてからずっと浮かない表情の鳳だったが、宍戸の不器用な優しさに触れたことでようやく笑顔を見せる。それを見て安心したのか、宍戸は鳳の頭をポンと軽く叩くと口元の笑みをさらに深いものにしながら短く息をついた。

「…さってと、俺も残り片付けねーとな。鳳、食い終わったら打ちにでも行くか?」

「はいっ!俺急いで食べます!」

 鳳はその言葉を聞き、条件付で遊園地に連れて行ってもらう約束をした子供のような返事をした。それに対し宍戸も張り切りすぎる子供をたしなめる親のように苦笑しながら答える。

「ぷっ。そんなに急ぐことねーよ、まだ時間あっからきちんと噛んで食え。じゃねーと消化悪くて打ってる途中で胃もたれ起こすぞ?」

「あ、それもそうですね…。宍戸先輩と打ち合うなんて滅多に出来ないから、俺嬉しくてつい…」 

 嬉しい出来事が立て続けに起こって多少浮かれていたことに気付いた鳳は、そう言って照れくさそうに笑った。宍戸も鳳の頭から手を退けて残りのサンドイッチを取りながら笑う。

「さっきとはえらい違いようだな。ま、とにかく飯はゆっくり食え」

「はい!」

 ニコニコと笑いながら鳳が元気良く返事をしたのを切っ掛けに、二人の昼食が再開された。宍戸は先ほどと変わらず美味しそうに食べている。落ち込んでいた鳳も、宍戸のおかげで箸の進み具合が食べ始めとはうってかわってスムーズになっていた。同じお弁当なのに気持ち一つでこんなにも美味しく感じるものなのだなと思いながら、鳳は綺麗に並べられた中身を次々とたいらげていった。
 そうしてしばらくの間お互いの昼食に専念していたため、言葉のないまま時間だけが過ぎていった。しかし無言といっても気まずいものではなく、ここには春の陽だまりのようなあたたかな空気が流れている。大勢で騒ぎながらとる食事も楽しくていいのだが、たまにはこういう穏やかな雰囲気も良いものだと鳳は思った。
 残り四分の一ほどになったところで鳳はいったん箸を休め、喉を潤すためにペットボトルに口を付けながら何の気なしに自分のお弁当に視線を落とした。育ち盛りである息子のために栄養バランスを考えて作られたそのお弁当の中には、生クリームのたっぷり入った玉子焼きも入っている。それを見て鳳は先ほど食べた玉子サンドを思い出した。

『そう言えば、宍戸先輩に食べさせてもらったんだよなぁ…』

 あの時はパニックを起こしかけていたのでそんなことを考える余裕などなかったが、こうして落ち着いた今頃になって鳳は胸がドキドキしてきた。しかしこんなことを考えているのは自分だけで、特に意識せずにしたことなんだろうなと思いながら横にちらりと視線を送ると、当の本人は俯いた姿勢のままじっとしている。不思議に思った鳳がその様子をしばらく見守っていると、ふいに宍戸の頭がかくんと前に倒れた。

『あ……寝ちゃってる……』

 満腹になって眠気が襲ってきたのだろう。宍戸は立て膝を突きながら目を閉じてこっくりこっくりと舟をこいでいた。片手にはオレンジジュースのパックが握られたままで、力なく握られたそれは今にも手から離れてしまいそうに見える。中身が入っていたら大変なことだと思った鳳は静かに箸を下ろしお弁当を床に置くと、宍戸を起こさないようにゆっくりと手を伸ばして取り除こうとした。しかし鳳が触れる前に、宍戸の手からパックが滑り落ちていく。

「うわっ!」

 慌てた鳳は前のめりになってかろうじてそれをキャッチした。零れることなく無事に鳳の手の中に収まったパックだったが、取った瞬間宍戸の足に手が当たってしまい、そのせいで起きてしまったようだ。

「…んあ?」

「あっ!すみません…」

「おおとり?…なんだ、めし、くいおわったのか?」

 まだ半分夢の中なのか、宍戸は小さい子供のように舌足らずな口調で眠たげに目を擦っている。

「い、いいえ。まだです」

「そか……じゃあ、くいおわったら…おこせ」

「は、はい」

 鳳の返事を聞いているのかいないのか、宍戸は言いたいことだけ言うと今度は足を投げ出して壁に凭れかかり、再び寝てしまった。

『うわー、かわいい……』
 
 寝ぼけている宍戸を初めて見た鳳は、そのあまりの可愛らしさに寝顔から目が離せなくなった。勝気な印象を与える眦の切れ上がった瞳は閉じられ、下瞼のあたりに睫毛が濃い影を落としている。少し俯いているせいで頬に掛かった前髪はさらさらと風に揺れていた。鳳はその様子を眺めながら家に飾られている白磁製の人形を思い出した。

『なんか……きれいだな……』

 鳳が宍戸に見とれていると、花の香りがふいに鼻孔をくすぐった。とてもいい香りのするそれは先ほどと同じで、どうやら宍戸のいる方から馨ってきているらしい。
 校内には生徒達の交友を目的とした《交友棟》という建物がある。その南側には四季折々の花が咲き乱れる立派な庭園が造られているので、そこから風に乗ってやって来たのかと思ったが、方角的に宍戸のいる方とは逆の方向なのでその可能性は低かった。となると宍戸自身から馨ってきていることになるが、香水など匂いのする類のものは嫌いだと、前に顔を顰めながら本人が言っていたのでそれも違うように思える。ではこの香りは一体どこから来ているのだろうと考えを巡らせていると、寝ているはずの宍戸が急に呻きだした。

「…んー……」

 宍戸はわずかに眉根を寄せて首を左右に動かしている。凭れかかっている壁はコンクリートで出来ているので、寝心地はあまり良くないのかもしれない。しかしどんなに動かしてもいいポジションは得られなかったようで、その瞳は再びゆっくりと開かれ、ジュースを受け取った体勢のままだった鳳と目線が合った。

「…………」

 お互いの視線が交わっているはずなのだが、宍戸はぼんやりとしていて何の反応も返さない。焦点があっていないところを見ると、まだ意識がハッキリしていないようだ。

「………宍戸先輩??」

「……うざい……」

「!?」 

 鳳は固まってしまった。うざい…目の前にいる鳳が邪魔で言ったのかもしれないが、いくらなんでもその言葉はひどい。あまりの衝撃に鳳が動けないでいると、宍戸がゆっくりと片手を持ち上げ髪をまとめてあるゴムを引っ張り始めた。寝るのに結び目が邪魔になったのか、ふらふらと上体を不安定に揺らしながらもほどこうとしている。しかし寝起きで感覚が鈍っている宍戸には上手く出来ないようで、結び目の位置がわずかにずれ所々たわみはじめていた。
 その行動から察するに、『うざい』とは自分のことではなく、髪の結び目のことを指していたのだとわかった鳳はほっと胸をなでおろす。その間も宍戸は手を動かしていたのだが、髪はほどけるどころかゴムの間からもはみ出てしまい、見るも無残な髪型になってきている。変な風に引っ張ったせいか妙につっぱっている部分もあり、何だか痛そうだ。手助けしたほうが良いのどうか鳳が迷っていると、ぐらぐらと不安定だった宍戸の体が突然大きく斜めに傾いた。

『あっ!』

 鳳はとっさに片手を伸ばして宍戸の体を受け止める。その瞬間、また花の香りがした。さっきよりもハッキリと感じられるその香りは、やはり宍戸から馨ってきている。そのことに気付いた鳳の鼓動がトクンと跳ねた。

『この香り……宍戸先輩?』

 どこか東洋的な花を思わせるよい香りに鳳が気を取られていると、腕の中の宍戸がわずかに身じろいだ。

「…うー………」

 体を鳳に預けたまま、宍戸はゴムを外そうと自分の頭に手を伸ばしてもぞもぞと動かしている。結び目はだいぶゆるくなっていたのだが、運悪く髪の一部がゴムに巻きつきかけていて、このまま引っ張るとせっかくの綺麗な髪が切れてしまうかもしれない。そう思った鳳は慌てて持っていたジュースを床に置き、その手をやんわりと掴んで止めようとした。しかしそれを嫌がった宍戸は鳳の腕に頭を押し付けて幼い子供がむずかるように首を横に振る。そのせいで覗き込むような体勢を取っていた鳳はあやうく倒れそうになるが、瞬間的に腕とわき腹に力を込め相手の頭を抱き込むような形で何とか踏み留まった。

『あ……あぶなかった……』

 宍戸の黒髪に顔をうずめ、冷や汗を掻きながら鳳が大きく深呼吸をしたその時、あの花の香りが再び鼻孔いっぱいに広がった。鳳は驚きに目を瞠る。自分がずっと疑問に思っていたあの香りは、宍戸の髪から馨ってきたもの――つまりシャンプーの香りだったのだ。それなら香水を付けない宍戸から馨ってきても納得がいく。

「シャンプーだったんだ…」

 鳳は宍戸の頭から顔を離しながらポツリと呟く。髪がほどけかけていることで結んでいた時に中に閉じ込められた香りがあたり一面に広がる。風がやんでいる今も、こうして近くにいるだけでその香りが感じられた。
 宍戸は完全に寝入ってしまったのか、鳳の腕の中ですうすうと規則正しい寝息を立てている。先ほどのすったもんだで引っ張られていた髪も大方ほどけ、不快感がなくなり安心したのだろうが、その元凶でもあるまとめていたゴムはまだ取れていない。引っ張られて痛いということはもうないだろうが、髪に絡まったままでは良くないだろうと思った鳳は、体勢を立て直すと起こさないようにそっと自分の膝に宍戸の頭を下ろし、注意深く髪の毛をほどいていった。
 
「……できた」

 さほど時間も掛からず絡まった髪をすべて綺麗にほどくことが出来た鳳は、大仕事を成し遂げたように満足そうな息をつくと、手にしたゴムと宍戸の髪を交互に見た。自分のとは全く手触りの違う宍戸のしなやかな髪は結んだあともなく、ついさっきまで絡まっていたとは思えない。その何物にも影響されない様子は、本人の性質をそのまま表しているようだった。
 黒髪を見つめながらぼんやりとしていると、膝上で寝ていた宍戸の肩がふるりと震え、まるで猫のように背中を丸めて膝を抱え込んでしまった。髪をほどくことに集中していて気づかなかったが、屋上に来た頃よりも少し風が強くなっているようで、寝ている身には肌寒く感じられたのだろう。このままでは宍戸が風邪を引いてしまうかもしれない。そう思い室内に戻ることも考えたが鳳だったが、こんなに気持ちよく寝ているのに無理やり起こすのもかわいそうだ。そこでなるべく足を動かさないように注意して上着を脱ぐと、宍戸の腰元にそっと掛けてあげた。丸まっているせいもあるが、標準サイズより大きい鳳の上着は宍戸の腰から下全体をすっぽりと覆ってしまう。裾からちょこんと覗いている上履きの先端が、何だかとても可愛らしかった。

「これでよしっと」

 満足げに頷き再び宍戸の顔に視線を戻す。上着のおかげで寒さが和らいだのか、口元にうっすらと笑みを浮かべながら健やかな寝息を立てていた。その幼い子供のような寝顔に微笑みを浮かべ見いっていると、がちゃりと音がして金属のこすれ合う独特の音が鳴り、人の話し声が聞こえてきた。

「あれー、やっぱいないよー?聞き間違えたんじゃない?」

「えー、そんなことないってば。ちゃんと聞いたもん」

「ホントに?他の屋上も見てきたけど、やっぱいなかったじゃん」

「結構時間たっちゃったから、もう違うとこ行ったんじゃない?」

「階段ばっかで疲れたー」

「ちょっと、そんなとこに座んないの!」

 にぎやかな女の子達の声だった。質の違う声から察するに、四、五人はいるだろうか。

「誰もいなさそうだけど、一応探してみよっか」

「そうだね。ここまで来たんだし」

「王子様と仲良くなるチャンスだったのになー」

「まだいないって決まったわけじゃないじゃん。とりあえず手分けして探そう」

 盗み聞きするつもりはないのだが、高めの声で繰り広げられる会話は、耳のいい鳳には全部聞き取れてしまった。どうやら女の子達は『王子様』という人を探しに屋上までやって来たらしいが、鳳たちはチャイムがなる前からここにいるので、そんな人は来ていないと断言できる。そのことを伝えようと思ったが、宍戸が膝の上で寝ているため身動きもとれず、かといって大声も出せない。どうしようか悩んでいると、女の子の一人が力ない声でなにやら文句を言っているのが聞こえてきた。

「お腹へったー。もう動けないー」

「ほら、あんたも座り込んでないで探すの!」

「えー」

「王子様近くで見たかったんでしょ?聞きたいこともあるって言ってたじゃない」

「うん」

「何?聞きたいことって」

「えっとね、なんでそんなに大きくてキラキラしてるのか」

「はあぁあ?なにそれ。あんた、あいかわらず訳わかんないわねえ」

「…大きいはともかく、キラキラは答えに困ると思うんだけど」

「天然に冷静なツッコミをしてもムダよ。はい、あんたも『大きくてキラキラ』の理由が知りたかったら、まずその本人を探しに行きなさい」

「はーい」

 女の子達全員が『王子様』を手分けして探し始めたようだ。声があちこちから聞こえてくる。そう言えば先ほど文句を言っていた子だったと思うが、探し人である『王子様』のことを大きくてキラキラしていると言っていた。『大きい』は身長のことを指しているのだろうと予想はつく。しかし『キラキラ』が何を指しているのか鳳にはわからない。『王子様』と言われているくらいだから、キラキラしたオーラをまとっているのか、それとも外見にキラキラした部分があるのか。

「キラキラ……」

 鳳は膝上の宍戸へと視線を落とした。太陽を浴びた黒髪に天使の輪が光っている。それを見た瞬間、鳳の脳裏にあの時の光景が鮮やかによみがえってきた。太陽に反射して輝く黒髪をなびかせながら、目の前に颯爽とあらわれた宍戸。その姿は思わず見とれてしまうほど格好良くて綺麗だった。心当たりはないと思っていたが、彼女達の捜している『王子様』と言うのは、もしかしたら宍戸なのかもしれない。

「あっ」

「どうしたの?誰か見つけた?」

「なになに、王子様いたの??」

「ちょっとー、返事くらいしなさ……」

 宍戸の顔を見つめながら物思いにふけっていると、建物の影から複数の声が聞こえてきた。鳳はゆっくりと声のする方を振り返る。するとちょうど三メートルほど離れたところに、四人の女の子達がポカンとした様子で立っていた。
 初めて見る女の子達だった。人を捜しに屋上にやってきたと言っていたので、鳳たちを見てすぐに立ち去るかと思われたが、女の子達はまるでその場に固定されてしまったかのようにピクリとも動かない。きっと誰もいないと思っていた屋上に人がいたので驚いてしまったのだろう。全員見覚えのない顔だったが、『目の合った人には、それがたとえ見知らぬ人であっても挨拶をしなさい』と両親に小さい頃から教え込まれていた鳳は、四人の食い入るような視線に晒されて多少居心地の悪さを感じながらも、軽く頭を下げ笑顔で挨拶をした。

「こんにちは」

「きゃーーーーーーーーー!!!」

 鳳が挨拶をし終えた途端、まるでその言葉が魔法を解く呪文のように、今まで固まっていた四人の女の子達はけたたましい嬌声をあげてその場から走り去っていった。鳳はその後ろ姿を呆然と見送る。

「な……なんだったんだ?今の」

 耳をつんざくような甲高い声に、鳳は鼓膜だけでなく脳まで揺らされた気分になった。一方今の騒ぎで起きるかと思われた宍戸だったが、いっこうに目覚める様子はなく、膝の上で相変わらずすやすやと気持ちよさそうに眠り続けている。鳳はその様子を見て思わず吹き出した。自分の耳にはまだあの余韻が残っているというのに、夢の中の宍戸には何の支障もきたさなかったのだ。何だかよくわからないが、すごいとしか言いようがない。

「…宍戸先輩ってすごい」

 鳳はくすくすと肩を揺らしながら笑う。膝上には子猫のように丸まって眠っている宍戸。腕時計に目を走らせると昼休みは残すところ三十分弱になっている。食べ終わったら打ち合う約束をしたが、次のチャイムが鳴るまでこのまま眠らせてあげよう。そう思った鳳は、床に手を伸ばすと食べかけのお弁当に再び箸を付けた。







 その日の放課後。
 委員会の用事でいつもより遅くなってしまった鳳が一人部室で着替えていると、ユニフォーム姿の忍足が誰かを背負って入ってきた。

「お、鳳。今やったんか」

「お疲れ様です、忍足先輩……っと、ジロー先輩?」

 ふわふわのひよこ頭。忍足の背中に背負われていたのは慈郎だった。意識がないのか、その四肢には力が入っておらずダラリとしている。

「もーほんま疲れたわ。鳳、おろすの手伝って」

「あ、はい。ジロー先輩、どこか具合悪いんですか?」

 忍足の背中から慈郎を受け取り、部屋の隅にあるふかふかのソファの上に凭れかけさせながら鳳は心配そうな顔で尋ねる。それに手をひらひらと振り忍足は笑って答えた。

「あーちがうちがう、いつものあれ。ただ寝とるだけ」

「そうですか。それならいいんですけど……あれ?でも珍しいですね、忍足先輩が捜しに行くなんて」

 どこかで寝てしまって部活に来ない慈郎を捜すのは部長である跡部の仕事だ。氷帝の部長自らそんなことをしなくてもと思うかもしれないが、これには訳がある。跡部なら起きた状態の慈郎を短時間で連れてくることが出来るからだ。しかしどこで寝ているかもわからない慈郎を毎回捜すわけでもなく、特に何もなければ好きにさせている。それなのに人に頼んでまで捜させているとなると、なにかトラブルでもあったのだろうか。

「今日監督来るらしくてな。でも跡部は大事な用があって抜けれんとか言うて、そこにたまたまおった俺に捜索命令を出したっちゅうわけ。あー肩こった」

 肩に手を当てて首をぐりぐりと回しながら、忍足は普段使わない筋肉をほぐしている。

「そうだったんですか…本当にお疲れ様です。それにしてもジロー先輩、全然起きないですね」

「人の苦労も知らんと、無邪気な顔して寝とるわな」

 忍足は慈郎をちらりと見たあと、呆れた表情を浮かべながらため息をついた。

「監督が来るなら今起こした方がいいんでしょうけど、こんなに気持ち良さそうに寝られたら、なんだか起こすのかわいそうですね」

 慈郎の寝顔を見て昼間の宍戸を思い出した鳳はくすりと笑う。その様子を見ていた忍足は、腕を組みながらからかうような視線を鳳に向けた。

「優しいなあ、鳳は。そうやって女の子にも膝貸してあげたんか?」

「は?」

「あ、お前鈍かったな。ちゃんと言わんとわからんか」

 鈍いなんてずいぶんと酷い言われようだと思った鳳だったが、忍足の言っていることがわからないのでそのまま黙って耳を傾ける。

「うちのクラスの女子がな、『王子様が女の子に膝枕してたー』言うてえらいきゃーきゃー騒いでなあ。そらもうすごかったで」

「……それ、人違いだと思いますけど」

 忍足の言葉に全く心当たりのなかった鳳は首を傾げながら答える。 

「人違いて……お前今日の昼、新館の屋上に行ったんちゃうの?」

「あ、はい。行きましたけど……」

「そこで四人くらいの女の子に会わんかったか?」

 鳳はそれを聞いて、嬌声をあげながらあっという間に走り去っていった女の子達を思い出した。

「……あ」

 その様子に忍足はやはりと言った表情で頷く。

「やっぱお前やん」

「あの人たち、忍足先輩のクラスだったんですか」

「そーや。そこで見た言うてたで。女の子に膝枕してあげながら、しあわせそーな顔しとるの。しかもお前、それ見られても余裕の笑みっちゅうの?にっこり笑いかえしたそうやないか。その子らもかわいそうになあ。王子様と昼飯食うためにわざわざ屋上まで捜しに行って、そんなん見せつけられて。びっくりして帰ってきても仕方ないわ。まあ、それ聞いた俺のほうがびっくりしたけどな。図体でかくても中身はこどもこどもしとるとばかり思っとったのに。お前もいっぱしの男やってんなあ……あ、男っちゅうか『王子様』か。んー、『膝枕の王子様』?…なんや間の抜けたネーミングやけど、お前にぴったりやん」

 忍足はニヤニヤと意地悪そうに笑いながら、まるで機関銃のように好き勝手なことをまくしたてている。鳳はその膨大な量の言葉に圧倒されつつも反論した。

「……ち、違いますよ!」

「違うて、なにが?」

 何からどう説明していけばわかってもらえるのか検討もつかない鳳は、とりあえずこれだけは違うと言いきれることを口にする。

「俺『王子様』って人じゃないです」

「ああー?なに寝ぼけたこと言うてんのや。王子はお前。他に誰がおる?」

「他にって……宍戸先輩とか」

 王子様はキラキラしていると女の子が言っていたのを思い出し、鳳は自分の中でそういうイメージがある人を順番にあげていった。

「宍戸!?それはないな。んなこと言うのお前が初めてやぞ、きっと」

 鳳の発言は忍足のキツイ一言でばっさりと切って捨てられた。一番王子様に近いと思っていた宍戸をあっさりと否定され、鳳は驚きに目を見開く。

「ええ!!……じゃ、じゃあ跡部部長とか日吉とか」

「跡部は『王子様』っちゅうより『王様』とか『女王様』やな。日吉は名前も『若(わかし)』やし、和風っぽいから『若様』のほうがしっくりくるやろ。それに女の子達は『王子様』が膝枕してた言うとったんやぞ?あの二人がそんなことするたまに見えるか?」

 膝枕をしている二人を鳳は想像してみたが、跡部は膝枕をさせている映像しか浮かんでこないし、日吉にいたっては何も出てこない。

「……見えないです」

「屋上にお前がおったんもホントなんやろ?」

「はい……」

「せやから『王子様』はお前。わかったか?」

「……あんまりわかりたくなかったです」

 自分の知らないところでそんなあだ名をつけられていたことにショックを受けた鳳は、うなだれながら力なく返事をした。

「まーまー、そうへこまんと。別に悪意はないんやから、好きに言わしたったらええがな」

 その様子に忍足は苦笑しながら壁にかけてある時計に視線を送る。

「お、もうこんな時間か。無駄口叩いてしもうたな。おい、ジロー」

 忍足はぴたぴたと頬を軽く叩きながら慈郎に呼びかける。

「……んー、おしたりー?」

「起きたか?ならはよ着替え。監督来るで」

「うー…………」

 寝起きの慈郎は、眠い目を擦りながら立ち上がるために、目の前にいる鳳の洋服を引っ張った。

「うわっ!?ジ、ジロー先輩!?」

 突然横に引っ張られて体勢を崩した鳳は、そのままソファに座るように慈郎とともに倒れこんでしまう。引き倒した慈郎はといえば、己の睡眠欲のおもむくがままにそのまま膝の上に上体を乗り上げ、鳳を枕代わりにして再び横になり寝てしまった。目の前でそれを見ていた忍足は軽く吹き出したあと、クックッと笑いを噛み殺しながら鳳に話しかける。

「……ぶっ。どうやらジローにも気に入られたようやで?王子様の膝枕」

「ちょっ、忍足先輩。笑ってないで助けてくださいよ」

 慈郎にのしかかられて困り果てた鳳は、情けない声で忍足に助けを求めた。

「んー、どないしようかなー?馬に蹴られて死にたないしなあー」

 高みの見物を決め込んだのか、忍足は人の悪い笑みを浮かべて手を貸す様子もない。

「…いくら俺が王子と言われていても、馬は飼ってないです。それにこれは人の恋路じゃないでしょう?」

「お?そうきたか。普段ボケの癖になかなか高度なツッコミするやないか。自分王子の自覚が出て来て賢くなったんちゃう?」

「……もう何て言われてもいいですから、ジロー先輩起こすの手伝ってください」

 忍足とのやり取りに心底疲れきってしまった鳳がため息をつきながら答えると、ガチャリとドアの開く音が聞こえ誰かが入ってきた。

「……ああ?何だてめえら、まだこんなとこにいやがったのか」

 口悪く鳳たちを罵りながら入ってきたのは、制服姿の跡部だった。それにいち早く気づいた忍足は軽く手を上げ挨拶をする。鳳も一呼吸遅れてぺこりと頭を下げた。

「よ。お疲れさん」

「あ……お疲れ様です」

「お疲れじゃねえよ。忍足…てめえ、俺の言ったことも満足に出来ねえボンクラなのか?」

「寝こけたジローを背中にしょってここまで連れてきたのに、ボンクラはひどいわ」

 気品あふれる秀麗な顔で暴言を吐く跡部に臆することもなく、飄々とした様子で忍足は答える。文句を言われているのは忍足なのだが、それを目の前で見ている鳳はなんだか自分が怒られているような感じがして、居心地悪そうに二人の顔を交互に見た。その様子を横目で見ながらつかつかと歩み寄ってきた跡部は、慈郎の寝顔を見てため息をついたあと、その肩を軽く揺さぶって起こそうとする。

「起きてなきゃ意味ねえんだよ。それくらい気づけ、バーカ。……おい、ジロー。起きろ」

「んー……あー、あとべだー……はよー」

「おはようじゃねえ。もう放課後だ。いい加減起きろ」

「……やだ…ここきもちい…から……まだ…ね……」

 慈郎は鳳の膝にすり寄りながらまた眠ってしまった。その言葉を聞いた跡部の動きがピタリと止まる。

「あららー。振られてもうたなあ、跡部。やっぱ王子様の膝枕にはかなわんか」

 忍足が余計なちゃちゃを入れる。鳳は顔面蒼白になった。まずい。何だかわからないがとてつもなくまずい。嫌な予感に背中までゾクゾクしてきた鳳が恐る恐る視線を上げると、片眉をしならせ額に青筋を浮かべた跡部と目が合った。鳳は蛇ににらまれた蛙のように固まってしまい、目をそらしたくてもそらせない。跡部はそんな様子の鳳におもむろに手を伸ばし、しなやかな手つきで相手の耳から頬にかけてのラインをゆっくりと撫で下ろすと、身も凍るような笑顔を浮かべた。

「……王子様の膝枕とやらは、よっぽど寝心地がいいらしいなあ。なあ、鳳?」

 妙に凄みのある艶っぽい声で語りかけてくる跡部に、鳳は恐怖心からか声も出せず、涙目になりながら相手の目を見返すことしか出来ない。傍観者を気取っていた忍足だったが、その様子を見かねたのか助け舟を出してきた。

「跡部ー。あんまいじめたらかわいそうやろ。鳳半べそかいとるやないか」

「あー?これは俺様に褒められて感激して泣いてんだよ。そうだよなあ?」

 頬を撫でながら跡部の言う言葉に、鳳は必死になってこくこくと頷く。

「ほらみろ。……ジローも世話になってるみてえだし、その礼に鳳にはご褒美でもやるか」

 その言葉に鳳はますます涙ぐみ、先ほどとは逆にぶんぶんと横に首を振る。跡部は笑みをさらに深いものにしながら顔を近付けると、吐息混じりに鳳の耳に囁いた。

「遠慮すんなよ……謙虚な奴は嫌いじゃないが、せっかくこの俺様がご褒美をやるって言ってんだ。それを断るなんて興ざめなこと、良い子の鳳がするわけないよなあ?」

「……それ半分脅しやないか?」

 呆れたように忍足が言うと、跡部は鳳から視線をはずし、忍足に向かって冷たい視線を投げつけた。

「うるせえ、忍足。お前は黙ってろ」

「おーこわ」

「あんなバカはほっとくに限る……さて、何にしようか?」

 鳳に目線を戻した跡部は、唇の端を吊り上げて悪魔のように笑う。鳳は殉教者のような気持ちで目を潤ませながら相手の目を見つめていた。張り詰めた空気の中、忍足はその様子を興味深げに眺め、慈郎は鳳の膝の上で周りのことなど関係なくぐうぐうと気持ち良さそうに眠っている。

「そうだな……ジローもお前の膝枕を気に入ってることだしなあ」

 単に寝起きが悪いだけなのだと思うのだが、横槍を入れる余裕など鳳にはない。

「……決めた。今日から一週間、お前のこと『膝枕の王子』って呼んでやるよ。せっかくだから部員達にもそう呼ぶように言っとくか」

「!?」

 跡部のご褒美は、鳳にとって嫌がらせ以外の何ものでもなかった。鳳は目を見開き、すがるような目つきで跡部の目を見返す。その目を見た跡部は、鳳の頬を撫でていた手を顔の輪郭をなぞるようにすっと動かすと、顎を掴んで持ち上げた。

「ああ?何だその顔は。不満なのか?……じゃあ『優柔不断なヘタレワンコ』にでもするか?」

 口調は穏やかだが跡部の言葉は脅し文句にしか聞こえない。鳳の顔が今にも泣き出しそうなほどに歪む。跡部に睨まれてから静観を決め込んでいた忍足が、それを聞いて鳳の助け舟になるようなならないような言葉を口にした。

「『ヘタレワンコ』はあんまりやないか?せめて『名犬ジョリー』とか、それをもじって『迷犬ちょりー』とかじゃあかんの?」

「何だ?『名犬ジョリー』?」

「なんや、跡部知らんの?俺らが産まれるだいぶ前にやっとったテレビアニメ。主人公の少年セバスチャンとピレネー犬ジョリーの、種族を超えた愛と友情の感動物語でなあ」

「セバスチャンとピレネー犬?……ああ、Cecile Aubryの『Belle Et Sebastien』か。幼稚舎に入った頃読んだな」

「セシルかなんか知らんけど、あれはいい話やったなあ。ちっこいプッチとか言う犬もつれて三人で旅すんねん。ビスケットとかチーズとか毛布とか二人で半分こにするんやでー」

「…忍足、お前のアニメ薀蓄はどうでもいいんだよ。…ふん、まあいい。俺は心が広いから、バカの意見も候補に入れてお前に選ばせてやる。『膝枕の王子』『名犬ジョリー』『迷犬ちょりー』さあ、どれがいい?」

 どれも嫌だと鳳は言いたかったが、そんなことを言ったらさらに恐ろしい報復が待ち受けているのはわかりきっている。鳳は恐怖と緊張でからからに渇いた喉から声を絞り出すようにして答えた。

「……ひ…膝枕の王子がいいです」

 『で』ではなく『が』と言ったことで、鳳の謙虚な態度が伺えた。

「ふっ……決まりだな」

 その答えに跡部は満足したようで、顎から手を離すと勝ち誇ったように忍足と鳳の顔を交互に見る。

「忍足。ジロー起こして着替えさせろ。膝枕の王子はそこで俺が着替え終わるまで待っとけ」

 それだけ言うと、跡部は自分のロッカーにすたすたと歩いていき、上着を脱いで着替え始めた。

「えー、ここまで連れてきたんやからもうええやろ?」

 忍足が不満顔で訴えるが、跡部は取り合わない。

「よくねえよ。今日のジローの担当はお前だ。最後まで面倒見るのは当たり前だろうが」

「面倒見るて……俺はジローのおかんやないで」

「ぐだぐだ言ってねえでさっさとやれ」

 その言葉を聞いて忍足は深いため息をついたあと、肩を竦めて慈郎のいるソファに近づいていった。

「……はいはい、わかりましたよー。さあジロちゃん、おっきしましょーねー。今日は景吾ママに代わって侑士ママがジロちゃんの着替え手伝ってあげまちゅよー」

「……んあ……ゆうし…まま…?」

 忍足は鳳の膝から慈郎を抱き起こすと、赤ちゃん言葉で話しかけた。その様子は端から見たらなんとも言えず気持ち悪い。その気持ち悪い忍足の言い草を聞いていた跡部はピタリと着替えの手を止め、忍足に冷たい一瞥を向けた。

「……忍足。俺を怒らせたいのか?」

 地を這うような跡部の声を聞き、鳳は自分が怒られたわけでもないのにビクンと肩を竦めた。怒られた当の本人は、その怒りに怯えるどころか気づかないふりをして、寝ぼけている慈郎に向かって話しかけている。

「あらー、ジロちゃんおしっこ行きたいのー?じゃおトイレ行くついでに更衣室で着替えましょーねー」

 忍足はさっと荷物をまとめると、慈郎を肩に担ぎ上げて部室から出て行ってしまった。かわいそうなのはその場に置き去りにされた鳳だ。跡部と二人きりにされ、恐怖におののいている。爆弾を投下していった忍足がいない今、その矛先が自分に向くのがわかっていた鳳は、今度は何を言われるかと気が気ではなかった。

「……なあ」

「は、はいっ」

「名前のお披露目……総会の挨拶で盛大にしてやるから光栄に思え」

 鳳はその言葉を聞いてがくりとうな垂れた。跡部はやると言ったらとことんやる人間だ。それがたとえ今回のようなくだらないことであっても、全精力を挙げて取り掛かるに違いない。

「楽しみだなあ、総会」

 跡部は心底楽しそうに笑っている。鳳はその言葉を肯定も否定もせず、ただ黙って俯いていることしか出来なかった。




 それから三日後の総会の日。
 全校生徒の前で名指しで呼ばれた鳳は、生徒会長である跡部によって一週間限定の『膝枕の王子』と命名された。それだけならまだ良かったのだが、跡部の合図で突如あらわれた黒服の集団に囲まれ、その場で英国の皇太子のような衣装に着替えさせられたあげく、壇上にまつりあげられ戴冠式の真似事までさせられてしまったのだった。
 それからというもの、鳳は生徒だけでなく教師達からも『膝枕の王子』と呼ばれ、一週間どころか一ヶ月近くもその名で呼ばれ続けた。その間、鳳が羞恥にまみれた学校生活を送ったのは言うまでもないが、唯一の救いは、その期間中も宍戸だけは『鳳』と呼んでくれたことだった。



●おわり



○シャンプーのかほりに胸ときめく長太郎を書きたかっただけなのですが、途中からなんだか話がそれてしまい、終わってみれば一体何が書きたかったのかわからなくなっていました。久々の鳳宍なのにー!(´д⊂)メソ
やまもおちもあやふやな感じですが、少しでも楽しんでいただけたら嬉しいです。/睦月あじさい
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