いちご記念日

睦月あじさい



 今日は3月14日ホワイトデー。一ヶ月前のバレンタインデーほどではないが、校内は心なしか浮き足立っている。バレンタインデーに義理、本命あわせて結構な数のチョコレートを貰っていた黒羽は、母親の用意したお返しをあらかた配り終えたあと、部活をするためクラブハウスへと向かった。校舎を出て人気のない前庭を通り、第2グラウンドの脇を横切ってテニス部と書かれたドアの前で立ち止まる。授業が終わってからすでに30分は過ぎているため、全員コートの方に行ってしまったのだろう。室内からは人の気配が感じられなかった。誰もいない部室に入るのだから挨拶などしなくていいのだが、黒羽はついいつもの習慣で、ドアを開けながら誰に向けるでもない言葉を口にした。

「うぃーす」

「―バネさん、遅い」

 いつもよりは少し遅い時間帯だったため、誰もいないと思っていたのだが返事が返ってきた。少し俯き加減だった黒羽は、その声に反応し顔をあげる。室内に視線を走らせると、ドアから入って右側の壁際に備え付けてある古びたベンチに天根が腰掛けていた。

「あ?んだよダビデ。まだいたのか」

「バネさん待ってた」

 ラケットのガットを整えながら天根が答える。お互い部活に行く時は、学年が違うということもあってばらばらだ。それなのになぜ今日に限って天根は待っていたというのだろうか。黒羽はドアを閉めながら天根に問いかけた。

「何だ、なんか用でもあんのか?」

 尋ねたのは黒羽の方なのだが、天根はあるものを目線で示しながら逆に聞き返してきた。

「何、その紙袋」

 黒羽が鞄とスポーツバッグ以外を持っているのは珍しいことだ。しかもそれが有名な某お菓子メーカーのかなり大きい紙袋だったものだから、余計天根の興味を引いたのだろう。

「ああ、これか。お返しだ、バレンタインの」

 そう言いながら黒羽はこの部室が出来た時に取り付けられた年代物の木製のボックスへと歩み寄り、多少乱暴に荷物を置いた。その衝撃でボックスの上に乱雑に置かれた歴代の優勝カップが揺れ、カタカタと音をたてる。中には今にも落ちてきそうなカップもあるのだが、黒羽は特に気にした風でもなく部活の準備をし始めた。

「ふーん…そういやバネさんいっぱい貰ってたっけか。おばちゃん用意すんの大変だったんじゃねぇ?」

「まあ、しょうがねーんじゃねぇか?ほとんど自分の胃袋に入ったんだからよ。――つーか、そういうダビこそ俺より貰ってただろうが。お前んちのおばちゃんも大変だったんじゃねーの?」

 黒羽は上着を適当にたたんでボックスに置き、シャツのボタンを外しながら問いかける。天根はその言葉を聞いて首を傾げた。

「大変?何が?」

「何がってお前、お返しの準備がだよ」

 ボタンを外す手を思わず止め、黒羽はベンチの方へと顔を向ける。天根は動かしていた手を止め無表情のまま黒羽の顔を見返し、しばらく考え込んだ後ゆっくりと口を開いた。

「準備?…別にない」

「ない??…つーことはお前、お返ししないってことか」

 黒羽は母親が律儀に用意してくれるので、それを学校に持って行き配り歩くのが恒例となっていた。天根の場合確かにあれだけの量を貰っていれば、お返しをするのも一苦労だろうが、天根の母親も自分の母親とそういう点では似たタイプなので、知っていたなら準備はしていただろう。しかしそれがないということは、本人がおのずとそれを拒否して『お返しはしない』ということにしたのかもしれない。

「お返ししないっつーか、俺、バレンタインもホワイトデーも貰ったことしかねーし」

「はあ?なんだそりゃ」

 黒羽は自分が予想していたこととは全く違う返事をしてきた天根に驚く。つまり天根はバレンタインデーもホワイトデーも、もっぱら貰ってばかりということだ。

「わかんねーけど、みんなくれるって言うから貰う」

 ホワイトデーというのはバレンタインデーのお返しをするために作られた日だ。お返しをする立場にある人間が、逆に貰ってしまっては一体何のためにある日なのかわからなくなる。黒羽は頭の中でふとある考えがよぎり、再び天根に問いかけた。

「ダビデ。今までおばさんがお返し準備したことあんだろ?」

「…一回だけ」

 天根が少しばつの悪そうな返事をする。黒羽は天根の様子を見て、なんとなくだがホワイトデーまでお菓子を貰うことになった理由が読めてきた。

「おばさんのことだから、一週間くらい前には用意してたんじゃねーか?それがたまたまお前の好きなやつで、それを見ちまったお前は我慢できずに当日までに全部食っちまった」

「…すっげ。何でわかんの?バネさん」

 ずばり言い当てられてしまったのだろう。天根がピクリと眉毛を動かし、目をわずかに丸くしている。これはかなり驚いているという証拠だ。しかしそれが解るのは天根と長年の付き合いがある者だけで、あまり親しくない人間から見れば先程とどこが変わっているのか解らない。黒羽はこれもある意味内弁慶と言うのかなと思いながら話を続けた。

「それくらいすぐ解るっつの。そこで、お前もさすがにやばいと思ってお返しを渡すはずだった相手に正直に謝った。お前に対して好意を持ってる人間なんだから、そんな事されたらますますお前のこと気に入っちまうわな、そりゃ。で、なんだか知らんが毎年ホワイトデーにまでお菓子を貰うようになった。―ま、こんなとこだろ」

 黒羽はまるでその場面を見ていたかのように話す。それに対し、天根はこくこくと頷いた。

「こえーくらい当たってる。怒られっかなーと思ってたけど、みんな笑って許してくれた。しかも『じゃあ来年はホワイトデーにもあげるね』とか言われたし」

「甘いもん好きだからなぁ、おまえ」

 今日の自分はなかなか冴えているらしい。予想が見事に的中した黒羽は、愉快そうにけらけらと笑いながら着替えの手を進めた。ボタンをすべて外し終え、シャツを脱ぎ落としTシャツ一枚になる。黒羽が脱いだものを適当にボックスへ放り込み、ジャージを手に取って袖を通す。その時何の気なしに黒羽が視線を動かすと、視界に入ってきた天根と目が合った。そう言えば黒羽が来てすぐに、天根が『バネさん待ってた』と言っていたのを思い出す。着替えの手を休めぬまま黒羽は振り返り、そのことについてもう一度尋ねようとした時、それより先に天根がボックスを指差しながら尋ねてきた。

「それ、まだあんの?」

 黒羽は言われてボックスの中に視線を向けた。そこにあるのは自分の脱いだ制服と鞄類。準備の途中なので多少乱雑に配置されており、天根がどれを指して言っているのか解らない。

「それってどれだよ」

 天根は相手に解らぬよう小さなため息をついた。具体的に言わず『それ』とぼかして言ってしまった天根も悪いのだが、今までの話の流れでいけばあえて言わなくても普通は解るだろう。しかし黒羽は話の流れから天根が何を指して言ったのかとは思わず、ボックスの中を見てそう言い出したと思ってしまったのだ。二人の考えで微妙な食い違いが生じてしまえば、話が通じないのも当然のように思える。天根は手にしていたラケットをベンチの上に置き、改めて相手の顔を見ながら一言ずつ、はっきりと言葉にした。

「お か え し」

「……あー、一個余ってっけどよ。それがどーかしたか」

 黒羽は天根の言葉を聞いて、ボックスの中で違和感を放っている紙袋に視線を落とす。たまたま今日休んでいた子がおり、渡しそびれたお返しがその中にぽつんと一つ残っていた。常温でも腐るものではないから、相手が学校に来るまでここで眠っていていただこう。黒羽がぼんやりとそんなことを考えていると、天根が片手を差し出してきた。

「ちょーだい」

「はぁ?なーに言ってんだてめぇ」

 黒羽は心底呆れた表情で天根の顔を見る。天根は小首を傾げながら黒羽の目をじっと見つめた。

「あげたじゃん、チョコ」

 天根は当然もらえるものだと思っているような口ぶりだ。たしかに黒羽は天根からバレンタインデーにチョコを貰ったし、きちんとお返しの準備もしていた。しかしそのお返しというのが他のやつの軽く三倍の量がある代物(甘いもの好きの天根のために特別に黒羽の母親が用意したもの)で、他のお返しを詰め込んだ時点で天根の分は紙袋に入りきらず、結局家に置いてきてしまった。まあたとえ持って来たとしても、今日がホワイトデーと天根は解っているのだから、誘わなくても勝手に黒羽の家に上がりこむに決まっている。だったら持ってくる手間をかけるだけ無駄と言うものだ。その点も考慮したうえで黒羽は持ってこなかったのだが、天根にそれが解るはずもない。

「あのなぁ…これはお前のじゃねーんだよ。今日たまたま休んだ子がいたから余ってんだ」

「俺の分は?」

「ここにはねーな。家に置いてきた」

 自分の部屋に置いてきたお返しを思い出しながら黒羽は即答する。

「わかった。じゃあ帰りに寄る。いい?」

 天根は黒羽の家に行けば自分の分があることを知り、あっさりと引き下がった。そして切り替えも早く、家に寄ってもいいかとお伺いをたててくる。

「おー、いーぜ。……つーかダビ、その為に残ってたのか?」

 その言葉を聞き、最初は持ってこなくて正解だったなと思った黒羽だったのだが、それを聞くためだけに天根が自分を待っていたのかと思うと、本当は持ってきてやったほうが良かったのかもしれないと考える。黒羽の問いかけに対し、天根は頷きながらはっきりと答えた。

「欲しかったから」

 いかにも天根らしい、単純明快な言葉が黒羽の耳に届いた。
 
「―お前、そんなにお菓子食いたかったのか?ほんとに甘いもん好きだなー」

 しみじみとそう言いながら黒羽は笑った。天根は『甘いもの』ではなく、『バネさんがくれるお返し』が欲しかったと言いたかったのだが、言葉の裏の意味を読まない黒羽には解らない。まあ、そういう黒羽の性分も天根は好きなのだが、たまには気付いて欲しいものだとも思う。一旦足元に視線を落とした天根はしばしの間考え込んだ。ここで直球勝負をかけたら、黒羽はなんと答えるのだろうか。そう思った途端、天根の口から言葉が出ていた。

「バネさんのほうが好きだ」

 一瞬黒羽の動きが止まる。天根は俯いていた顔を上げ、黒羽の横顔をじっと見つめていた。 

「――ありがとよ。俺も好きだぜ、お前のこと」

 一呼吸間をおいたあと、着替えの手を再開させながら黒羽は天根のほうを向いてニカッと笑った。すぐに返事をしなかったところをみると、少しは意味を考えていたのかもしれないが、何かをしながら物事を考えるのが苦手な黒羽のことだから、反応が遅れただけかもしれない。

「で、ダビデ。お前まだ行かないのか?」

 たまには自分がつっこんで聞いてみようと思った天根だったのだが、相手に話題を変えられてしまったのでそれも出来なくなってしまった。――まあ別にいいか、と思いながら黒羽の話に合わせる。

「……んー。どうせバネさんもうすぐ着替え終わるっしょ?だったら待ってる。柔軟の相手いないし」

 天根はベンチに腰掛けたまま大きく伸びをした後、首を二、三度回しながら返事をした。たしかに今からコートに行ってもみんな準備運動は済ませているだろうし、他の練習を中断させて手伝ってもらうのもなんだか気が引ける。それなら遅れてきたもの同士やるのが一番だろう。

「じゃあ、あと下履き替えるだけだからちょっと待ってろ」

「うぃ」

 天根の返事を聞き、黒羽は着替えの手を心持ち早める。ベルトを外してズボンに手をかけると、ポケットのあたりで何かが当たる感触がした。なんだろうと思いながら黒羽が中を探るとカサカサと音がする。取り出してみると、透明なセロハンで覆われた色とりどりのアメ玉が出てきた。鮮やかな色彩のそれらは、オレンジや淡いピンク色をしており、その色が果物の色を表しているのが見て取れる。

「そういや、こんなの貰ってたっけか」

 黒羽が手のひらを見ながらポツリと呟く。お返しを配っている途中、渡した相手のうちの一人がくれた物だった。黒羽は別に欲しくは無かったのだが、いらないとむげに断ることも出来ず、あとで誰かにあげればいいかと思ったので貰ってきた。動きを止めた黒羽が気になったのか、天根がベンチから腰を上げ近付いて来た。

「どーした、バネさん」

「ん?―ああ、アメ玉貰ってたの忘れてた。いるか?ダビ」 

「いる」

 天根は返事をしながら黒羽に向かって両手を差し出す。

「ほらよ」

 黒羽は手にしていたものをすべて渡した。天根は自分の手のひらに転がっているアメ玉に視線を落とし、それから黒羽の顔を見た。何かもの言いたげな表情をしている。

「何だぁ、その顔。嫌いな味でもあったのか?」

 その言葉に天根は横に首を振り否定した。

「違う。食わして、バネさん」

「ああ??なーに甘えたこと言ってやがる。自分で剥いて食えよ」

 黒羽は奇妙な顔をしてアメ玉と天根の顔を交互に見た。一枚のセロハンで包んであるだけなのだから、小さな子供でも簡単に剥いて食べることが出来る。それなのに剥いて食べさせろとは、甘ったれるにもほどがあると言うものだ。黒羽の表情を見て、どんな風に思ったかは大体わかったのだろうが、天根にもそれなりの言い分があるらしい。少し間をおいたあと、ポツリと呟いた。

「……両手、塞がってんだけど」

 天根の言うとおり、差し出した両手は貰ったアメ玉が転がっており、塞がっているのは確かだ。とは言うものの、それが自分で食べられないということには繋がらない。片手に移すなり、どこかに置くなりすれば簡単に食べることは出来るのだ。しかし今日はせっかくのホワイトデー。こんな日くらいは甘えさせてもらってもいいのではないか――そう思った天根が、黒羽に食べさせてもらうためにあえてそれをしなかった。かわいらしいワガママである。

「……そう言われりゃそーだな…ったく、しゃーねーなあ。食わしてやっから口あけろ、おら」

 そのことに気付いていない黒羽は、仕方ないといった様子がありありとわかる表情をしつつも天根に食べさせてやるつもりらしく、アメ玉に手を伸ばしてきた。なんだかんだと口では文句を言いつつも、結局のところ面倒見はいいのだ。しかし細やかな配慮に欠けているので、幾分大雑把になってしまうのは仕方ない。味なんてどれもたいして変わりは無いだろうと思っている黒羽は、適当に選んだアメ玉を取ろうとした。そこで天根が横槍を入れる。

「イチゴがいい」

「あー?注文の多いやつだな…どれだよ――っと、これか?」

「そう。その赤いやつ」

 黒羽は言われたとおりにそれを取ると、ぺりぺりとセロハンをはがした。その様子を見ながら、天根は雛鳥のように口をあけて待っている。アメ玉を手に取り、相手に食べさせるため口元に近付けようとしたその時、黒羽の動きが止まった。
  
「………」

 ここでもしこのアメ玉を自分が食べてしまったら、天根はどんな顔をするのだろうか――ふと、そんな考えが黒羽の頭の中をよぎった。一方天根は、急に動かなくなった黒羽を訝しんだのか怪訝な表情で顔を覗き込んでくる。

「バネさん?」

 眉間に皺を寄せたその表情は、普段と大差ないように思える。この表情が思いっきり崩れたら面白いかもしれない。黒羽は手にしたアメ玉をぽいっと口に放り込み、再度天根の表情を伺った。

「あ」

 天根の口から一言だけ声が漏れた。しかし眉間の皺がわずかに増えただけで、その表情に大した変化は見られない。

「ひでぇバネさん。俺にくれるんじゃなかったの、それ」

 幾分拗ねた口調で天根が言う。貰ってきたのは黒羽だが、アメ玉はもうすでに天根のもので、その貰ったはずのアメ玉を目の前で横取りされてしまったのだから、天根が文句の一つも言いたくなるのは当然だろう。それに黒羽はそれがどうしても食べたかった訳ではない。突然芽生えた悪戯心のせいで、つい食べてしまったのだ。しかし期待していたほど天根の表情は変わらず、結局黒羽の悪戯は失敗に終わった。またその内容が子供じみたものだっただけに、なんだかとてもいたたまれない。

「あー…わりぃ。なんか食っちまった。いーじゃねーか、まだあるんだしよ。ほら、どれがいーんだ?」

 黒羽はいつもより若干トーンを高めにして口早に話した。しかしそれとは対照的に、天根はただでさえ低い声をさらに低くしてぼそりと呟く。

「…イチゴ」

「あー…っと、これか?」

 黒羽が赤っぽい色をしたアメ玉を指差しながら様子を伺うが、天根は首を横に振った。どうやらハズレらしい。

「違う。それはブドウ。イチゴはあれ一個しかなかった」

 黒羽には違いがよく解らないが、本人が違うと言っているのだからそうなのだろう。そうなると、イチゴ以外に天根が気に入る物を探さなければならない。

「これとか色似てんじゃねーか」

「それはさくらんぼ」

「あー…じゃあこれなんかどうだ?」

「みかんはいかん……ぶっ」

「――ダビデ。もう食わしてやんねーぞ」

 いつもならここで黒羽の手が出ているところなのだが、横取りしてしまったと言う後ろめたさがあるせいか、かろうじて踏みとどまっているようだ。天根もつっこんでこない黒羽の様子を不審に思ったのか、黙って様子を伺っていた。決してマゾと言うわけでは無いのだが、黒羽のつっこみがないとなんだか調子が狂ってしまう。リアクションに困ってしまった天根は、自分の手元に視線を落とした。手のひらに転がっている綺麗な色をしたアメ玉はどれもおいしそうなのだが、やはりイチゴが食べたい。

「――イチゴ…」

 天根がうわ言のようにポツリと呟く。

「パイナップルとかよー…他のもうまそうじゃねーか」

「ダメ。イチゴがいい」

 黒羽が他のを色々進めてみるが、天根は頑として譲らない。

「んなイチゴイチゴって言われてもなあ…どれもたいして味変わんねーと思うぜ?だいたいなんでそんなにイチゴが食いたいんだよ」

 天根とのやり取りにだんだん疲れてきた黒羽は、大きなため息をつきながらこだわっている理由を尋ねた。

「イチゴになってっから」

 ――意味不明である。元から言葉足らずなきらいのある天根だが、これはその域を超えていた。文法も何もあったものではない。歯抜けもいいとこだ。さらにどっと疲れてしまった黒羽は、脱力してしまったのか問いかける声にも力が入っていない。

「………はぁあ???何言ってんだダビ。訳わかんねーぞ、まったく」 

「イチゴが食いたいって思ったら、口ん中がイチゴ以外受け付けないっつーこと。ほかの食ってもなんか違うって思う。納得いかねー」

 理路整然とまではいかないが、先程の言葉とはうって変わって意味がわかる事を天根は言う。

「あー、そーいうことか…まあ、それならわからなくもねーけどよ」

 黒羽自身も、天根と似たようなことを思ったことがあった。以前家族全員で焼肉を食べに行こうという話になり、意気揚々と出かけたのだが肝心の店が臨時休業だったため、仕方なくその近くにあったしゃぶしゃぶ屋に入った。店に入った黒羽たちは、お腹が空いていたので適当に注文し、残さず食べ終えその時はそれなりに満足して帰った。しかし本当に食べたかったのは焼肉だったので、気持ちが満たされるわけが無い。同じ肉を使った料理なのだから大差ないと思ったが、焼肉としゃぶしゃぶは決して同じではなかったのだ。その時に感じた、悔しいような納得いかないような、何ともいえない気持ちを黒羽は思い出す。しゃぶしゃぶを食べても口の中が焼肉の味を求めていた自分と同じように、他のアメ玉を食べても天根の気持ちは満たされないということなのだろう。

「イチゴ」

「……だーかーらー、食っちまったもんは仕方ねーだろーが」

 どんなに天根がイチゴを食べたいと思っても、今現在の状態では無理な話というものだ。黒羽は深いため息をつく。天根も子供じゃないのだから、いい加減諦めてほかので我慢してくれないだろうか。そう考えた黒羽は仕方なく妥協案を提示した。

「今度同じやつ買って来てやっから、今日はあきらめてほかのにしろ」

「………」 

 黒羽の言葉を聞いてはいるのだろうが、天根にはそれに従う気が全く無いようだ。こわいくらいに揺るがない天根の視線は、変わらず黒羽をとらえており、何かを訴えかけていた。天根は一度こうと決めたら誰に何を言われようとそれを貫くタイプだ。初志貫徹といえば聞こえはいいのだが、それも時と場合によりけりで、今みたいな状況でやられてもそれはワガママにしかならない。まあ、元をただせば黒羽が天根のモノを横取りしたことが原因になるのだから、ワガママを言ったからといって叱れる立場にも無いのだが。どうしたものかと考えながら、黒羽は口の中にあるアメ玉をコロコロと転がした。果汁が入っているのか、駄菓子屋やコンビニでよく売ってあるものとは違い、人工的な味はしない。仄かな甘さとイチゴ独特の酸味があり、鼻から抜ける香りは学校の近くにあるイチゴ畑を連想させた。甘いものがあまり得意でない黒羽だったが、これならまた食べてもいいかなという気にさせられる。黒羽がアメ玉の味に思いをはせていると、天根がくんくんと鼻を鳴らしながら顔を寄せて来た。

「どーした、ダビ」

「…いー匂いがする。イチゴ畑の匂いだ……あー、食いてー」

 天根はそう言うと、黒羽の肩口に顔をうずめぐりぐりと額を擦り付けて懐いてきた。その仕草は黒羽の家で飼っている犬がおやつを欲しがって鼻面を押し付けてくる仕草と重なり、状況が似ていることもあって黒羽は思わず吹き出してしまう。

「ぶっ!」

「?なに」

 その笑いが気になったのか、天根はそのままの姿勢で問いかけてきた。それがまた、犬が甘えて鼻を鳴らす仕草とかぶって見え、黒羽は笑いを噛み殺しながらようやくといった様子で答える。

「…いや、うちの犬も食いもん欲しがる時に似たようなことしてんなぁって思ってよ」

「……む」

 その言葉がお気に召さなかったのか、天根は黒羽の肩にさらにぐりぐりと額を押し付けてきた。そのせいで肩口にあった髪の毛が揺れ、黒羽の首筋をさわさわと撫でていく。くすぐったくなった黒羽は、相手の肩に手を置くと笑いながら止めるように促した。

「ちょ、くすぐってーよ。やめろって」

「犬だから、人間の言葉ワカリマセン」

 天根は「犬に似ている」と言われたのを逆手に取りそう返事をすると、おもむろに顔をあげて何の前触れも無く黒羽の頬をぺろりと舐めた。天根のやることなすことすべてが犬と同じで、黒羽はおかしくてしょうがない。

「ぶっははは!お前サイコー!下手なしゃれよか全然面白いぜ」

「…ヴー」

 その言葉に傷ついた天根は、犬のような唸り声を上げて黒羽に抗議する。それを見た黒羽は、犬を褒める時と似たような感じで、天根の頭を両手で挟むと笑いながら髪をくしゃくしゃとかき混ぜた。

「ははっ、そう拗ねんなって。事実なんだからよ。…ま、でも笑かしてくれた代わりに、お前にいいもんやるよ」

 黒羽はそう言うと、掴んでいた天根の頭をぐいっと引き寄せ顔を近付けた。その行動を見て頭突きをされると思った天根だったが、避けようにも相手の手によって頭をがっちりと捕らえられていては動かすことも出来ない。黒羽曰く『いいもの』を頂戴しなくてはいけない状況に陥ってしまった天根は、それなら少しでもダメージを軽くしようと、きたるべき攻撃に備えて目を瞑り身構えた。完全に何かを勘違いしている様子の天根を見て、黒羽は笑みを深くする。危害を与えるわけではないと言ってもよかったのだが、天根にはいつも不意打ちで苦い思いをさせられているので、日ごろの意趣返しも込めて黒羽はあえて言わなかった。しかし後で『こんなんじゃなかった』と苦情を言われても困るので、前もって釘を刺しておくのは忘れない。

「あ、でも欲しがったのはお前だからな。後で違うとか文句言うなよ?」

 天根が身構えたにもかかわらず、黒羽は動きを止めそんな台詞を吐く。目を閉じていたこともあって黒羽の意図が読めなかった天根は、相手の様子を伺うため防御体勢は崩さずにゆっくりと瞼を開けた。ひらけた天根の視界いっぱいに滲んだ肌色が映る。焦点を合わせてそれが何か認識する前に、天根の唇に柔らかいものが触れた。

「?!」

 驚いた天根は目を見開いたまま固まっている。黒羽は天根の頭をさらに引き寄せ、相手の唇を舌で割り滑り込ませた。しかし天根は歯を食いしばったままの状態で、それ以上侵入することが出来ない。少し焦れた黒羽がつるりとした天根の歯を舌で軽く撫であげると、相手の全身から力が抜け歯列が割れた。それに気をよくした黒羽は、天根の頭に回していた手を動かし宥めるように優しく愛撫すると、いったん舌を引いて自分の口内にあったアメ玉を乗せ、再度侵入して唾液ごと相手に渡す。ゆっくりと唇を離すと、天根がコクンと喉を鳴らして飲み込んだ。しかし量が多かったのか、飲み込みきれなかった液体が唇の端から漏れ、顎を伝って落ちていく。黒羽は右手を口元に持っていき、そのとろりとした液体を親指でぬぐってやりながら天根の顔を見つめた。いまだに状況を把握できていないのか、天根は瞬き一つせずただただ呆然と黒羽の顔に見入っている。その様子を見た黒羽は、アメ玉のせいで少しべたついた感のある自分の上唇をぺろりと舐めたあと、悪戯が成功した子供のように笑った。

「うまいか?」

 声もなく天根が頷き、再び互いの視線が交わる。唇が触れ合ってから初めて天根がぱちぱちと瞬きをした。その瞬間、天根の顔がゆでだこのように真っ赤に染まった。その鮮やかな変化に黒羽は目を瞠る。天根の頬が赤くなったところを見たことが無いとは言わないが、こんな劇的な変化は初めてだ。耳やTシャツから見える首筋の辺りまで真っ赤に染まっており、この様子だと頭皮の色まで変わっていてもおかしくはなかった。深く考えたうえでの行動ではなかったが、黒羽は天根に一泡吹かせ、見たことも無いような表情も引き出すことが出来た。些細なことかもしれないが、いつもは天根の立場になることが多いだけに黒羽は嬉しくて仕方ない。ご機嫌になった黒羽は両手から力を抜き相手を解放すると、くるりとボックスに向き直り途中になっていた着替えの作業を再開した。天根に動く様子は見られない。その間に手早く着替え終えた黒羽は、バッグからラケットとタオルを取り出しながら話しかけた。

「―ダビデ。いつまでもそこに突っ立ってないでラケット持って来い。コート行くぞ」

 しかし相手からの返事はなく、そのかわりに何かが床に落ちる音がした。黒羽が視線を落とすと、足元にアメ玉が転がっている。ラケットを取りに行った天根が、何かの弾みで落としてしまったのだろうか。一度手にしたものをボックスに置いた黒羽は、アメ玉を拾い上げると天根のいるであろう方向にくるりと向き直った。

「おい、ダビ。アメ玉落ち……うわっ?!」

 黒羽が振り向いた途端、天根が抱きついてきた。不意をつかれバランスを失った黒羽はよろけて危うく倒れそうになるが、そこは普段の筋トレと持って産まれた足腰の強靭さでもって何とか持ちこたえる。しかしその拍子に踵で何かを蹴ってしまった。それは乾いた音を立てながらドアの方へと転がっていく。何事かと思い黒羽が音のする方に視線を送ると、先程自分が天根にあげたはずのアメ玉が転がっていた。辺りを見回すと、あちこちに同じものが散らばっている。天根は貰ったアメ玉を放り投げて黒羽に抱きついたのだった。

「こら!何てことすんだお前!!」

 黒羽は食べ物を粗末にする天根を注意しようと首を動かした。その時天根の髪が頬をふわりとかすめ、整髪料の香りが黒羽の鼻腔をくすぐる。肩口に視線を落とすと、天根は無言のまま抱きついており、黒羽の言葉も聞こえていないのかピクリとも動かない。その様子が何だかいつもと違う気がした黒羽は、心配そうに眉根を寄せながら身じろぎした。

「ダビデ?おい、どーした」

「――バネさん」

 ようやく天根が口を開く。その声は、しばらく出していなかったからか、それとも先程のショックからまだ抜け切れていないのか、少し掠れていた。黒羽は耳元で囁かれたその声に思わず鳥肌を立てる。

「―ちょ、ダビデ」

 背中がゾクゾクしてきて妙に落ち着かなくなった黒羽は、天根の腕を軽く叩き少し腕の力を緩めてもらおうとしたのだが、かえってぎゅっと抱きつかれてしまった。耳元で喋られるのが嫌なだけで、離せとは言っていないのだが、天根は聞き入れてくれない。

「耳、くすぐってーんだよ…離せって言ってんじゃねーって。力緩めろ」

 天根は黒羽の肩口から顔を上げ、腕の力を少しずつ抜いていく。その俯き加減の天根の表情は髪で隠れてしまい、何を考えているのか黒羽には解らなかった。
  
「―初めてだ」

「何がだよ?」

 ポツリと天根が呟いた言葉に、黒羽は首を傾げた。初めてと言えば、あそこまで真っ赤になった天根を見た事しか今のところ思い浮かばないのだが、その事を黒羽に言ってもあまり意味が無いと思う。それとも今食べているアメ玉の味が、今まで食べたことの無い味だとでも言いたいのだろうか。黒羽が不可解な表情を浮かべていると、天根がゆっくりと顔を上げた。互いの視線が絡み合う。

「バネさんからのキス」

 黒羽はその言葉を心の中で反芻した。天根とは数え切れないくらいキスをしていると思うが、どちらからしたかなんていちいち覚えていないし、黒羽は特別に意識したことが無かったので今まで気付かなかった。

「あ?そうだったか?」

「そーだよ。つーわけで、アメ玉にちなんで今日は俺とバネさんのイチゴ記念日に決定」

「…なんだそりゃ」

「バネさんからしてくれた初めてのキスがイチゴ味だったから」

 先程の余韻で心持ち頬をピンクに染めた天根は、至極真面目な顔で訳のわからないことを口走る。熱に浮かされたようにも見えるその表情を見て、黒羽はますます怪訝な表情をした。天根の言いたいことは解らなくもないのだが、だからと言ってなぜ自分まで一緒にされなくてはいけないのだろうか。何だか腑に落ちない黒羽は、その思いを天根に伝える。

「そうだったかもしんねーけどよ、だからって何で俺まで一緒にされんだよ」

「なんでって、俺たち一心同体少女隊。そして夜にはバネさんちでがった…ふぐっ!」

 自分たちの母親世代が解るか解らないかというくらい古く、とんでもなく寒いダジャレを天根が言い終わらないうちに、黒羽の右手が相手のわき腹を殴った。体を動かせなかった分クリーンヒットには到底及ばなかったが、それなりの痛みは与えたのだろう。天根は一度呻いたあと、腹部に手を当てながらその場にうずくまってしまった。

「ダビデ。しょーもないことばっか言ってねーでラケット取ってこい、コートに行くぞ。―ったく、お前がくっだらねーことばっか言ってるせいで、時間だいぶ過ぎちまったじゃねーか」 

   天根を見下ろしながらにべもなく黒羽が言い放つと、くるりと振り返りボックスに置いてあったラケットを取ろうとした。その時に横目でちらりと天根に視線を送るが、当の本人はその場にうずくまったまま立ち上がる気配がない。たいして力を込めたわけではなかったが、当たり所が悪かったのだろうか。少し心配になった黒羽は再度向き直って相手を伺うよう前傾姿勢を取り、手を伸ばしながら話しかけた。

「―おい、ダビ…」

「…そんなバネさんの愛がイタイ」

 人が心配してやったと言うのに、天根はまだくだらないダジャレを考えていたようだ。むかついた黒羽は、全く懲りていない様子の天根に制裁を加えるため右手を振り上げた。

「まーだ言うか、このくそダビデ…っと、わっ?!」

 頭を叩こうとした黒羽の右手は、不覚にも攻撃を予想していた天根の手に捕まり引き寄せられた。中腰という体制をとっていたため引っ張られてバランスを崩しかけた黒羽は、倒れまいと意識を足元に集中させる。天根はその隙を突いて顔を寄せると、黒羽が抵抗する間も与えず唇を掠め取った。そして素早い動作でその場から離れ、ベンチの上に置いてあったラケットを取り、陸上部も真っ青の走りで勢いよくドアを開けて飛び出して行った。まさに疾風怒濤の勢いである。何が起こったか解らず一瞬呆けてしまった黒羽だったが、すぐに我に返ると立ち上がり、開けっ放しのドアの向こうに見えるすでに小さくなってしまった天根の背中に向かって叫んだ。

「ダビデ!!」

 その声が聞こえたのだろう。天根はぴたりと足を止めて振り返ると、手にしたラケットごと振りながら黒羽に聞こえるように大声で叫んだ。

「バネさーん!今日ぜってー一緒に帰ろうぜ!!」 

 天根は言いたいことだけ言うとくるりと踵を返し、黒羽の返事も聞かずコートに向かって走り去った。

「…何なんだ、あいつ」

 一人部室に取り残された黒羽は、その場に立ち尽くしたまま豆粒のように小さくなった天根の姿を見送りポツリと呟く。突飛ともいえる天根の行動は、黒羽の経験から考えると予測出来たはずなのだが、今まで見たことのない天根の意外な一面を垣間見て、うっかり勘が鈍ってしまったようだ。

「ま…いっか」

 黒羽は頭を掻きながらため息をつく。最終的には天根のいいように事が運んでしまった感がしなくもないが、面白いものも見ることが出来たし、それはそれでよしとしよう。切り替えの早い黒羽はそう結論付けると部室の床に目を落とした。

「つーか、これ俺が片付けんのかよ?」

 うんざりしたような声を出す黒羽の目の前には、先程天根に渡したアメ玉が転がっていた。しかしそれをばらまいた本人はここにはいないので、黒羽が片付けるしかない。

「ったく、手間かけさせやがって…飛び蹴り確定だな」

 ぶつぶつ文句を言いながらも黒羽は散らばったそれをすべて拾い集めると、端の方に寄せてあった机の上に乗せた。ここに乗せておけばみんなの目に付き、誰かしら食べてくれるはずだ。アメ玉はすでに天根のものだったが、誰にも分け与えないほど狭量ではないから他の部員が食べても何も言わないだろう。黒羽は机の上のアメ玉に視線を落とした。自分がイチゴだと勘違いした赤っぽい色が目に付く。黒羽はなんとなくそれを手に取り、さまざまな角度から眺めた。天根はこれをブドウだと言っていたような気がする。比べる対象も無いし食べたことも無いのに、よくこれがイチゴでなくブドウだと解ったものだ。アメ玉の味なんてどれも甘ったるいだけで大差ないと思っている黒羽は、天根のこだわりを否定はしないが、正直なところよく解らない。黒羽はセロハンを剥くとそれを光に透かしてみた。床に落とした衝撃で欠けたりひびが入ったりしてもおかしくはなかったのだが、どこにもそれらしきところは見当たらず、貰った時と同じくまろやかな線を描いている。黒羽はそんなに脆いものでもないのだなと思いながら口に放り込んだ。ふわりと口の中に巨峰の味が広がる。こくのある甘みと独特の渋みが、先程口にしたイチゴとは全く違うものだということを告げていた。

「――たしかに、違うな。全然」

 甘いだけでどれもみなたいして変わらないと思っていたが、どうやらそうでもないらしい。黒羽はくすりと笑った。少しだけ天根のこだわりというものがわかったような気がした。



●おわり



○ たまにはダビデに真っ赤になってもらおうと思って書いたのですが…きもっ!(泣)バネさんを漢らしくしようと思えばただの冷たい人になってしまうし…微妙なさじ加減が難しいです。というか、下手すればダビバネでなくバネダビに見え…ぐふぅ(吐血)とまあ、こんなふうにどっちつかずのお話ですが、少しでも楽しんでいただければ幸いです。さあ、次はエイプリールフールネタだ!←おそっ/睦月あじさい
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