ゆきやこんこ
            
睦月あじさい


 一面の銀世界――
 他の部員より一足早くテニスコートを訪れていた天根と黒羽は、目の前に広がる光景を見て立ち尽くしていた。

「…すげーな。真っ白だぜ」

「どーする?バネさん」

 軽く見ても15センチは積もっている雪を眺めながら、天根は相手に問いかけた。

「どーするってお前…これ見てアレやらないわけにはいかねーだろ?」

 黒羽は目をきらきらさせながら幼い子供のような笑顔を天根に向ける。そもそも二人はテニスをやりに来たのだから、そのテニスをするにはまずこの一面雪に覆われて地面の全く見えなくなったテニスコートを整備する必要があった――つまり雪かきだ。がしかし、結構な重労働である雪かきをするのに、こんな嬉しそうな顔をするのはおかしい。となると、残るはアレしかない。

「……雪がっせ――ぶっ」

 天根が思いついた言葉を言い終える前に、突然顔面が白くて冷たいものに覆われた。天根が瞬きをすると、それは体温のおかげもあって顔を濡らしながら襟元へと落ちていく。ひらけて来た視界には、いつの間に移動したのか、コートの中央部分でこちらを指差しながら雪だまを手に仁王立ちしている黒羽が、いかにも楽しげに笑っていた。

「ダビデ!勝負だ!!」

 負けず嫌いの天根が、売られたケンカを買わないわけが無い。

「…にゃろう」

 天根はおもむろにしゃがみこんで雪だまを作り、黒羽めがけて投げつけた。それは結構な速さで相手に投げられたのだったが、それを作る過程から見ていた黒羽には通用しない。体をすいっと右にずらして上手い具合に避けられてしまった。

「そんなへろへろだまが俺に通用す―――ぶっ!」

 天根の投げた雪だまを見切った黒羽は、心持ち得意げな表情で相手をからかう言葉を投げかける。しかしそれを言い終わらないうちに、今度は先程とは逆に彼の顔面が雪で覆われてしまった。どうやら天根は雪だまを二つ作って一つを隠し持っていたらしく、黒羽が隙を見せたのを見計らって投げたものが見事顔面に命中したようだ。

「……油断大敵」

 黒羽の顔面が雪で覆われたのを見た天根は、髪をかきあげて残っていた雪を払い落としながらにやりと笑った。一方黒羽のほうも顔を雪で汚したまま目を細め、口端をわずかにあげ笑ってみせた。

「…そうきたか。でも二度目はねーぜ!どりゃっ!!」

 黒羽の言葉を合図に、天根VS黒羽の重量級雪合戦の幕が切って落とされた。綺麗に降り積もっていた雪で覆われていたテニスコートに、二人の攻防のおかげか所々穴が空き始める。そうして最初はお互いムキになってやりあっていたのだが、時間が経過するにつれて天根のほうが飽きてきたのか、両手をジャンパーのポケットに突っ込んだまま、飛んでくる雪だまを避けて逃げ回るばかりで反撃の様子が見られなくなっていた。

「んだよ、ダビデ!逃げてばっかいんじゃねー!」

 相手のやる気の無い態度を叱り付けながらも、黒羽は手を休めず雪だまを投げ続けている。黒羽に文句を言われても攻撃の姿勢を見せない天根は、雪だまをひょいひょいと上手い具合にかわしながら相手に文句を言った。

「だって、手がいてーんだもん」

 天根はどうやら雪を触っていたせいで『手が痛くなった』と言いたいらしい。

「あー?!甘ったれたこと言ってんじゃねー!手袋してんだろが!」

 黒羽はそんな軟弱なことを言う天根を情けなく思ったのか、そう言いながら更に厳しい攻撃をしかけてきた。その様子は、さながら不甲斐ない息子を叱り付ける頑固親父のようだ。

「してない」

 天根は先程より攻撃力を増した黒羽の雪だまを幾分必死な様子でかわしながらそう言い切る。相手になかなか雪だまが当たらないことで攻撃性を増した黒羽は、さらに躍起になって雪だまを投げ続けた。

「朝俺んちに来たとき、お前手袋してただろがっ!」

 黒羽がそういうのも無理は無い。確かに朝方天根が手袋をしているのを黒羽は見ているのだ。というのも、天根と黒羽が休日の部活に出るときは、どちらかが自転車を出し、それにもう片方が便乗して学校に行くという形を取っている。それで今日は天根が自転車を出す番だったのだが、朝方黒羽宅に迎えに来た彼の両手には、きちんと手袋がはめられていた。そしてそのまま現在に至り雪合戦をしているのだから、黒羽は当然相手も手袋をしていると思っていた。すると天根がポケットから片方の手を出し、すっとある方向を指差した。その手には黒羽の予想に反し、手袋ははめられていない。

「俺の手袋、あそこ」

 黒羽は無意識に相手の指差す方向に視線を向けた。天根が指差す方向には彼のスポーツバッグが置かれており、そのサイドポケットのところから手袋がちょこんと顔を出している。黒羽はそれを見て思わず動きを止めてしまった。

「…なんであんなとこにあ―――うわっ?!」

 突然視界がひっくり返ったのに驚いた黒羽は、一瞬何が起こったのか分からなかった。もちろんそれは天根の仕業で、黒羽の注意がそらされた隙を見計らって彼は一気にお互いの距離を詰め、相手に近づき押し倒したのだった。その結果、他の事に気をとられていた黒羽は、正面からがばっと抱きつかれたのにとっさに反応できず、そのまま仰向けに倒されてしまったのである。

「バネさんさみー。あっためて」

 黒羽に馬乗り状態になった天根は、おもむろに相手のジャンバーのジッパーを下ろし始めた。マウントポジションを取られたことで身動きの取れない黒羽は、上手く抵抗できず相手のなすがままになっている。

「!?ちょっ、何すんだダビデ!!さみーだろ!!」

 黒羽の言葉も聞かず、天根はジッパーを完全に下ろすと両脇に手を滑りこませ、相手の胸にきゅっと抱きついた。冷え切った天根の手が背中に回り、さらに体重をかけられる。すると必然的に黒羽の首から上は雪に押し付けられる形となり、それが直接肌に触れた瞬間、黒羽は冷たさのあまり悲鳴を上げてしまった。

「ぎゃっ!つめてっ!!おい、こらダビ!雪が入るだろがっ!!!」

黒羽は天根を剥がすために頭を一発叩いたのだが、本人には全く効いていないようだ。

「…あー、やっぱバネさんあったけー」

 相変わらず人の言葉を聞かないまま、天根はしみじみとそう呟きながら黒羽の胸に頭を擦り付けてごろごろと懐いており、一向に離れる気配が無い。前を開けられて抱きつかれてしまった黒羽は、最初は肌寒いと感じたものの、今は天根がしがみついているおかげでそうは感じなくなっていた。しかし押し倒された体はいまだ雪の上で、無防備な首から上はじかに雪に触れており、体温で融けたそれは熱を奪うだけであたためてくれるはずもない。このままの状態だと完璧に風邪を引いてしまう。雪は好きなのだが、それはあくまでも楽しむためであって、その雪をベッド代わりにする趣味を黒羽は持ち合わせていなかった。黒羽はこの状態をどうしたものかと考えながら天根のほうに視線を落とすと、なんだか幸せそうに自分の胸に懐いている。その様子に毒気を抜かれつつも、このままの状態でいるわけにもいかないだろうと考えた黒羽は、とりあえず起き上がるため自分の胸に抱きついたままの天根の背中をぽんぽんと叩いて相手を促した。

「……ダビデ、寒いのはわかったからどけ。このままじゃ風邪引くだろが」

 その言葉を聞いた天根の肩がピクリと震えた。どいてくれる気になったのかと思った黒羽だったが、自分の上から動こうとしない天根を見るに、どうやらそうではないらしい。黒羽はなんだか嫌な予感がした。すると天根が胸に顔をうずめたままくぐもった声でぼそりと呟いた。

「…春風が風邪を引く……ぶっ」

 予感的中――天根お得意のダジャレだった。それを聞いて黒羽が何もしないわけが無い。

「こんのくそダビデッ!くだらねーシャレ言ってる暇があんならどけっ!!」

 それを聞き終わった途端、黒羽はちょうどいい位置にあった相手の頭を両手で挟み込んで上を向かせ、渾身の力を込めて頭突きをした。黒羽に抱きつき暖を取っていたことですっかり油断しきっていた天根は、よもや相手がそんな反撃をしてくるとは思わずもろに頭突きを食らってしまう。その瞬間、黒羽にしがみついていた天根の腕が緩んだ。すると黒羽はその隙を突いて天根の下から抜け出し、相手をうつ伏せにして背中に乗り上げると、素早い動作で両手を相手の首に回しチョークスリーパーをかけた。

「ぐぁっ!――バ…バネさんギブギブ!!」

「さっさと放さないてめーが悪い……おらよ」

 いつもならもう少し締め上げているところなのだが、黒羽は意外にあっさりと相手を解放して立ち上がった。天根は雪の上に座り込んで首をさすりながら黒羽を恨めしそうに見上げている。

「…ひでぇバネさん」

「んだよ」

「手袋なしで雪合戦に付き合った俺にその仕打ち……」

「てめーがくだらねーこと言うからだろが」

「あんまりだ」

 よほど拗ねてしまったのだろうか。天根は幼い子供のように口を尖らせ、つらつらと恨み言を口にしながら立ち上がろうとしない。

「何ガキみてぇに――」

「俺のこと嫌いなんだ」

 天根はふいと相手から目線をそらし、俯き加減で全く脈絡も無いことをポツリと呟いた。黒羽は眉根を寄せながら訳がわからないといった様子で、突然妙なことを言い出した天根を見下ろす。

「ああ??何でそんな話になんだよ」

「嫌いなんだ」

 天根は黒羽の言葉に耳を傾けようとせず、俯いたまま相手を見ようともしない。黒羽は困り果てた様子で頭をガシガシかきながら天根に向かって問いかけた。

「嫌い嫌いってなぁ……あっ、もしかして不意打ちで頭突きとかチョークスリーパーのこと怒ってんのか?――ありゃツッコミだ。『親愛の証』みたいなもんだろ。つーか、いつもあれくらいやってんじゃねーか。何でそんなに拗ねんだよ」

 黒羽は話しながら自分なりに天根の感情について考察してみたようだ。しかし拗ねてしまった理由は結局解らなかったらしい。一方天根は黒羽の言葉に反応したようで、ピクリと肩を動かした後、ゆっくりとした動作で再び相手を見上げた。

「…親愛の証?」

「おう。ま、愛のムチともいうな」

 その言葉を聞いた天根は、黒羽の顔をじっと見つめながら何か考えているようだ。

「何だ?まだ納得いかねーのか?」

 首をかしげた黒羽が、一つため息をついて天根に問いかける。すると天根は否定の意味で首をぶんぶんと横に振り、一呼吸したあとおもむろに口を開いた。

「ん。わかった。バネさん起こして」

 黒羽の言葉に納得したのか、ようやく立つ気になったらしい天根は、助け起こしてもらうために相手に向かって両手を差し出した。その甘えたような仕草は幼い頃の天根を思い出させる。黒羽はわずかに微笑を浮かべ『体は大きくなっても中身はあんまり変わっていないな』と心の中で呟きながら手を差し伸べた。

「あ?……ったく、しょーがねーな。おらよっ――ってダビ。お前の手真っ赤じゃねーか!?」

 天根の手を掴んで起こそうとした時に、相手の手が真っ赤になっているのにようやく気付いた黒羽は、それを見て思わず大声をあげてしまった。

「だから言ったじゃん。手、痛いって」

 天根はあまり痛くはなさそうに淡々と答える。黒羽は天根の手をきゅっと握りながら、こんな手になるまで雪合戦につき合わせてしまったことをいまさらだが申し訳なく思った。それとともに、昔から夢中になると周りが見えなくなる猪突猛進な性格が変わってないことをあらためて感じる。天根のことを『変わっていない』と思ったが、自分もあの頃と根本的にはなんら変わっていなかったのだ。黒羽は人のことは言えないなと思わず苦笑いを浮かべながら、目線を天根の手元から顔にうつした。

「わりぃ――痛かっただろ?」

 そう言いながら黒羽は握っていた天根の手を一度離し、つけていた手袋を両方はずしてポケットにしまった。そして再び天根の手を取り、体温を分け与えるようにきゅっと握り締めてから自分の口元に寄せ、はーっと温かい息を吹きかけた。天根は黒羽の行動を見て最初のうちは少し驚いた表情をしていたのだが、相手が一生懸命自分の手に向かって息を吹きかけているのを見てだんだん嬉しくなってきたのだろう。整ってはいるものの、表情が乏しいおかげで無機質な印象をあたえる天根の顔は、めずらしくそれとわかるくらいに鮮やかな笑みを浮かべていた。

「――あったけー。ありがと、バネさん」

 もう十分温かくなったのか、天根は合図のように黒羽の手をやんわりと握り返した。

「もういーのか?」

「ん。じゅーぶん。――これって『親愛の証』?」

 黒羽の手を握り締めたまま、天根は相手の気持ちを推し量るように問いかけた。黒羽にとっては謝罪の意味合いもあったのだが、それもひっくるめて『親愛の証』とも言えなくも無いのでコクリと頷いた。

「まー、そうなるだろうな」

「じゃあ、俺もする――『親愛の証』」

 天根はそう言いながら黒羽の手を自分に引き寄せ、ゆっくりと顔を近づけた。黒羽が相手の行動を読めず、呆気に取られている間に二人の唇が軽く触れ合う。そして触れた時と同じくゆっくりと黒羽の唇から離れ、天根はふわりと笑った。一方黒羽は突然の出来事に対応できず、ただただポカンと相手の顔に見入っている。

「…冷てぇ。かさかさしてる」

 口元に笑みを浮かべたまま、天根はポツリと独り言のようにそう呟き、再び唇を近づけていく。固まったままの黒羽の視界では、整った天根の顔が次第にぼやけていった。そのゆっくりと近づいてくる天根の睫毛には、先程からの雪上での攻防のおかげか雪の結晶がついており、黒羽は抵抗するでもなくきらきらと光るそれをぼんやりと眺めていた。そうして再び互いの唇が重なり合い、天根の舌が黒羽の唇を割って侵入する。折しも黒羽の歯に天根の舌が軽く触れたその時―――天根の後頭部に衝撃が走った。その反動で互いの歯と歯がぶつかり鈍い音を立てる。

「―――っ!?」

「―――っぅ!!」

 無防備な状態だったところに降ってわいたような災害。
 二人は反射的に互いの手を振り解いた。するとそれとほぼ同時に天根の背後からなにやら歓声が聞こえてくる。

「わーー!おおあったりーーー!!!」

「おっ?やるじゃん剣太郎」

「すごいのねー」

 突然の痛みに驚いた黒羽は、顔をしかめながら痛みを訴える口元に手を当てた。天根もそれと同様に口元を手で押さえながら声のした方をゆっくりと振り返る。するとそこには、天根に雪だまを命中させてぴょんぴょんと飛び跳ねながら喜んでいる葵がおり、その後ろには今までの経緯を見守っていた佐伯と樹が、思い思いの反応をしながら立っていた。

「なにんなとこで二人して突っ立ってんのー?」

 災害をもたらした張本人が、にこにこと楽しそうに笑いながら二人に向かって話しかけてくる。それをいち早く認識したのは当てられた天根でなく、とばっちりを食らった黒羽の方だった。

「……てんめぇ…剣太郎の分際で100年早いんだよっ!!!!」

 犯人を確認した黒羽は、その攻撃がけっこうなダメージを自分に与えたものの内心助かったと思い、わずかに頬を赤らめながら葵に向かって走り出した。そんなふうに助け舟に便乗しながらも、その途中で報復するための雪だまを作ることを忘れないのは黒羽らしい。一方葵は、自分が当てたのは天根のはずなのに、その向かい側にいた黒羽が攻撃してくることの意味がわからなかった。

「わわっ!な、なんでバネさんがおこんの?!」

 意味不明ではあるものの、そのまま大人しく反撃を食らう可愛い性格でもない葵は、黒羽の行動に疑問を覚えながらもとりあえず逃げるためにその場から走り出す。一人その場に取り残されてしまった天根は『逃げられた…』と心の中で呟き、黒羽の後ろ姿を見送りながらため息を一つ吐きつつ、佐伯達のいる方へと歩き出した。

「おはよ、ダビ。災難だったな」

「めずらしく当てられちゃったのね」

「…うぃ…はよ。サエさん、いっちゃん」 

 天根は先程ぶつけたときに舌を切ってしまったのか、口の中に広がる血の味に顔をしかめながら二人と挨拶を交わした。それを見咎めた佐伯が『おや?』といった表情で天根に問いかける。

「あれ?どうしたダビ。口のはじんとこ切れてるぞ?」

「あ、ホント。まわりも赤くなってるのね」

 二人にしげしげと口元を見つめられながらそう指摘された天根は、自分の口元に手を当ててみる。引きつるような部分を指でなぞると、そこは少し湿っており、ピリッとした痛みが走った。指先を離し視線を落とすと、わずかにだが血の跡が見られる。天根はそれを見て、舌だけでなく唇まで切っていたことにようやく気付いた。

「…あー、ほんとだ」

 たいして痛がっていない天根の様子を見て、佐伯は苦笑しながら怪我の原因について問いかけた。

「またくだらないダジャレでも言ってバネ怒らしたんだろ?」

 佐伯の言っていることは直接の原因ではないが、まんざら外れというわけでもない。天根はまあそんなものかと考えながらコクリと頷いた。

「――んー、まあそんなとこ」

「でも、血が出るなんてめずらしいのね」

 樹は天根の傷口を痛々しそうに見つめながら呟いた。それを聞いた佐伯は樹に向かって極上の微笑を浮かべ、安心させるように肩をぽんぽんと叩いた。

「大丈夫だよいっちゃん。ダビデがドンくさくてたまたま当たり所が悪かっただけだって。こいつ頑丈だからこれくらい平気だよ」

 佐伯は虫も殺さないような綺麗な顔で、何気にひどいことを爽やかに言ってのける。ドンくさいと言われて少しむっとした天根だったが、佐伯に口でかなうわけも無いので、とりあえずこの場は無言でやり過ごすことにした。そんな天根の様子で心のうちが見て取れたのか、佐伯はくすっと笑いながら天根の口元を指差した。
 
「…でもまあ、それ、きっと後から腫れてくるぞ?」

「冷やした方がいいのね」

 そう言った樹は肩にかけていたスポーツバッグから小さめのタオルを取り出すと、水道のあるクラブハウスの方へと足を向けた。それを見ていた佐伯は、柔らかい眼差しを樹に向けながら仕方ないなあといった様子で笑った。

「いっちゃんはやさしいなぁ…っと、それじゃ俺は救急箱でも探してきますか」

 なんだかんだと言いつつも面倒見のよい佐伯は、結局樹の後を追うような形でクラブハウスへと歩いていった。寒さで麻痺したのか、あまり痛みを感じていない天根だったが、二人の好意を素直に受け取り大人しくその場で待つことにした。そうして天根が二人の後ろ姿を見送っていると、不意に背中に衝撃を受けた。本日三度目の背後からの攻撃に『今日は背中が厄日なのか?』と思った天根が自分の背後を振り返ると、そこには雪まみれになった葵が、かなり悲壮な表情で息を切らせながらしがみついていた。

「ダビデたすけてー!!」

「剣太郎ー!逃げんじゃねーー!!」

 どうやら黒羽の攻撃力に音を上げた葵が、天根に助けを求めに来たらしい。更に後方に視線を送ると、黒羽が雪だまを投げながらこちらに近づいてきていた。その様子を見て『なんだかターミネーターの曲が流れてきそうだな』などと考える天根だった。

「うわーっ!きたーーー!!!」 

 天根がそんなくだらないことを考えているうちに、どうやら黒羽が近くまで来ていたようだ。黒羽が自分達のいる場所にたどり着くまであと3メートル、というところでそう叫び声をあげた葵は、背中にくっついたまま天根の体を引っ張り、ぐるりと180度方向転換させた。そのまま突き進み、葵の首根っこを掴もうとしていた黒羽は、掴もうとした瞬間相手にするりとかわされてしまい、勢いあまって盾代わりにされた天根の胸元に倒れこんでしまう。

「―――うわっ!」

「――っと。バネさん、だいじょぶ?」

 背中にしがみついていた葵のおかげで後ろに倒れ込まずに黒羽の体を受け止めた天根は、相手の体を支えながらそう尋ねた。葵を攻撃することに夢中になってそれ以外は視界に入っていなかった黒羽は、突然頭上から降ってきた声に驚いて顔をあげる。ちょうど相手の顔を覗き込むような感じで下を向いていた天根は、危うく相手の頭突きを顎に食らうところだったが、それを紙一重でかわし再び相手の顔を覗き込んだ。一方天根に抱きとめられたのをいまいち理解していない黒羽は、驚いた表情のまま相手を見上げていた。その顔はこの寒さの中走り回っていたせいで、頬と鼻の頭がほんのりと赤く染まっている。また驚きで目を見開いているおかげで、普段よりも幼い印象を与えているのだが、ポカンと開いた口元は、先程ぶつけた時に天根と同様切ったのかわずかに血が滲んでおり、そこだけが妙な色をかもし出していた。
 『なんだかエロいよなぁ…』と思いながら天根が相手の顔を見つめていると、不意に黒羽の視線が天根の口元に落ちる。天根の口元が切れていることに気付いたのだろう。その場所をまじまじと見つめていた黒羽は、抱きしめられている天根にようやく聞こえるくらいの小さな声をあげた。

「―――ぁっ」

 その瞬間、黒羽の顔が熟れたりんごのように真っ赤に染まった。おそらく天根の口元の傷を見て先程の出来事を思い出したのだろう。さっきは葵のおかげで上手い具合にうやむやになったものの、結局は天根の腕の中でそれがまざまざと思い出され、余計に恥ずかしさが増してしまったようだ。一方それを間近で見ていた天根は、黒羽の表情の変化に驚きのあまり目を見開いたまま見入っていた。天根の口元を見ているため、若干伏し目がちな黒羽の睫毛は小刻みに震えており、真っ白な息を吐き出す唇は、端の方に鮮やかな赤のアクセントをつけたまま相手を誘うように開かれている。ほんのわずかな時間それに見入っていた天根は、黒羽が一度瞬きをするのを見てはっと我に返った。すると何を思ったのか、天根はオジイお手製のロングラケットで培われた腕力をフルに活用して黒羽をそのまま抱え上げると、ものすごい勢いでコートに向かって走り出した。

「?!うわっ!!!」

「わわわっ!な、なになに??」

 突然抱えあげられた黒羽は、驚きの声を上げながらそのまま連れ去られてしまう。一方天根の背中にすがり付いていた葵は、見事に振り払われてその場に尻餅をつき、猛然とダッシュをかけるその背中をポカンと見送っていた。そのままの勢いだと、どこまででも駆けていくかのように見えた天根の暴走はコートの中央あたりで減速し、雪の上に相手を押し倒すようにして黒羽ともども倒れこんだところでようやく終点を迎えた。

「うぎゃっ!!――ってえ……おいこら!なにしやがんだよっ、このくそダビデッ!!!」

 いきなり担ぎ上げられ、あれよあれよという間にコートの中央まで連れてこられその場に押し倒された黒羽は、突然襲った冷たさと痛みでようやく本来の調子を取り戻したようだ。先程のしおらしさとは打って変わり、押し倒された体勢のまま、抱きとめてもらった恩も忘れて今にも噛み付かんばかりに天根に向かって怒鳴りつけている。天根はといえば、黒羽を押し倒したあと素早く相手の腰骨に乗り上げ、いかにも逃がさないという感じで顔の両脇に手をついて取り囲み上から見下ろしている。その表情は俯いているおかげで両サイドの長めの髪が影となり、ようとして窺い知れない。

「……反則」

 すると、突然天根が黒羽にようやく聞こえるくらいの声でポツリと呟いた。しかしその言葉は黒羽にとって意味不明でしかない。

「あー?!何が反則なんだよ!わけわかんねーこと言ってねーでどけっ!!」

 黒羽がわめきながら天根を引き剥がそうと相手のジャンパーの上着を掴んでぐいぐいと引っ張る。しかし天根はそれをものともせず、滑らかな動作で黒羽に顔を寄せると口元に舌を這わせ、滲み出ている血をペロッと舐め取った。その行動のおかげで黒羽は再び顔に朱を走らせ、酸欠の金魚のように口をパクパクさせる。

「なっ!…な、っこ……ダ……!」

 天根に対し何か文句を言ってやりたいのだが、驚きと羞恥で二の句が上手く告げない黒羽の口からは、意味の成さない言葉しか出てこない。

「ほら、その顔……耳まで真っ赤だ。――あー、誰にも見せたくねー」

 天根はそう言うと黒羽の頭をはさむようにして囲っていた両腕を頭部にまわして抱え込み、窒息させる勢いでぎゅうぎゅうと抱きついてきた。抱きつかれた黒羽はといえば、恥ずかしいやら痛いやら苦しいやらで今度は首の付け根あたりまで真っ赤になりながら、ようやくといった風に声を絞り出す。

「ぐ、ぐるぢ…は、はなせダビッ……つーかどけっ……!!」

「ダーメ。放したらバネさん逃げる」

 雪の上でもお構い無しといった様子で、天根はさらに腕に力を込めて黒羽を抱きしめる。その様子は子供が自分の宝物を誰にも取られたくないと、必死になって守っているように見えた。黒羽はますますいたたまれなくなって手足をじたばたさせながら必死になってもがいている。
 こうして二人の攻防が続けられる少し前―――取り残されていた葵が呆気にとられて遠くから二人の様子を見ていると、ふいに後ろから名前を呼ばれて肩を叩かれた。驚いて振り向くと、そこには救急箱を持った佐伯と、濡れたタオルを手にした樹がたたずんでいた。

「どーした、剣太郎。こんなとこに座り込んで…雪合戦から戦線離脱か?」

「あ?……っと、よくわかんない」

 佐伯の言葉になんと答えていいのかわからず、葵は曖昧な返事しか出来なかった。すると樹が葵からコートの中央部分に視線を変え、首をかしげながら呟いた。

「雪合戦って、あれのことなの?」

 樹が不思議そうに言うのも仕方ない話で、黒羽に馬乗りになっている天根の様子はそれとは全くかけ離れていた。

「……んー、プロレス、かな??」

 二人の行動を最初から見ていた葵は、天根が黒羽を持ち上げて雪の上に押し倒したさまが、昔テレビで見たプロレスと似ているなと思ったのでそう答えた。するとそれを見ていた佐伯がクスクスと笑い出した。樹と葵は突然笑い出した佐伯を不思議に思い、視線を例の二人から笑い声の主に戻す。

「あれはプロレスって言うより、大型犬のじゃれ合いだな。もしくは調教に失敗して暴走した大型犬に押し倒された調教師??」

 佐伯は爽やかな笑みを浮かべながら、黒羽と天根の状態をそのように評した。ずいぶん酷いたとえだが、そう言われて改めてあの二人を見ると、そういう風にしか見えてこないから不思議だ。

「ぶっ!!っはは!サエさん、それはまりすぎーー」

 葵は佐伯の批評が妙につぼに入ったのか、ケタケタと笑い転げている。樹の方もその言葉がはまったものの、心根が優しい分おおっぴらに笑うと二人がかわいそうだと思ったのか、少し抑えたように笑った。

「……確かにそう見えるかもしれないのね」

 佐伯はそのはんなりとした笑いを樹らしいと思いながら相手の肩に手を置くと、葵の方を指差しにっこりと笑った。

「だめだめいっちゃん。おかしい時は我慢せずに笑わないと!あの葵みたいにね」

「そーだよいっちゃん!俺もうダビデが犬にしか見えなくなってきたよー!…くくっ……あーだめだ、はらいてぇ!!」

 どうやら葵の目にはあの二人が『バカ犬とダメ調教師』としてしか映らなくなってしまったようだ。ひーひー言いながら涙を流して笑い転げている。佐伯たちが三人三様で黒羽と天根の攻防を温かい(?)目で見守っていると、突然天根が黒羽に覆いかぶさり、窒息させんばかりの勢いで首から上を締め上げていた。対して黒羽は苦しそうに相手の背中をバンバンと叩いて抗議している。その様子がまた佐伯の言ったことにはまりすぎて、三人は顔を見合わせていっせいに笑い出した。
 三人の笑い声とともに、黒羽の悲痛な叫び声が澄んだ冬空にむなしく響き渡った。しかしその声が無残にも打ち砕かれたのは言うまでも無い。

「どーけーーー!!!」

「やだ」



●おわり



○ 日記に描いてあったひまわりのイラスト『キラキラダビバネ』をイメージして書いてみました。妄想猛々しい…というか空回ってしまいなんだかなーな仕上がりに(涙) バネさんが漢らしくなくてすみませんm(_ _;)m/睦月あじさい
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