自分がこんなに誰かの事を好きになるなんて、思ってもみなかった。




りんごの花 /睦月あじさい




 桜もそろそろ終わりの時期を迎え、新入生たちもようやく学園生活に順応しはじめた四月半ば。
 今年新入生として入った鳳はその日、日直だったこともあり五時間目の生物の授業に使う実験道具を準備するため、少し早めに昼休みを切り上げ生物室へ移動すべく、一人で体育館の前にある中庭を歩いていた。
   
『あー、生物かあ…嫌いじゃないんだけど、日直になると実験の準備とかしなきゃいけないから面倒くさいよなぁ……
顕微鏡使うとか言ってたから、アレって結構重いし…同じ日直の女の子に手伝わせるのも悪いしなぁ…』

 などと考えながらぼんやりと歩いていた鳳は、踵に何かが当たった衝撃と同時に後ろからかけられた声でふと我に返った。

「おーい、そこのでかいの!」

少しかすれ気味な、高くもなく低くもない声。

『誰だろう?』
   
 そう思いつつも、元来根が素直というか人当たりのいい鳳は呼び止められた事を特に疑問に思うこともなくゆっくりと振り返った。

「わりぃけど、お前の後ろにあるボール取ってくんねー?!」

「は?ボール?」

 振り返り際にそう言われた鳳は、訪ねた本人の顔もろくに見ず慌てて目線を言われた方にずらす。
 するとそこにはカラフルなバスケットボールが、鳳の影の腰辺りにコロンと転がっていた。

「うわっ?!すみません…考え事してたんで、気付きませんでした」

 そう言いながら慌ててボールを拾い、そのボールの持ち主であろう声の主に渡すべく顔を上げた。
 するとそこには、氷帝学園中等部のジャージを身に付けた、印象的な長い黒髪を後ろで軽く結んでいる女の子が立っていた。

『……あぁ、体育館でバスケやっててボールが外に出ちゃったんだ』

「これですかー?」

 相手との距離が少し離れているので、鳳は普段より大きな声を出して訊ねると、相手も鳳と同じくらいの音量で返事をしてきた。

「おー!ついででわりぃけど、そっから投げてくれ!!」

 ぶんぶんと手を振って相手が合図を送る。

「はい、じゃあ投げますよー!」

 相手のことを考えた鳳は、女の子でもボールが取れるようにいつもより力を抜き、少し高めにボールを投げた。
   
 鳳の投げたボールは綺麗な放物線を描き、ぽすんと音を立てて女の子の腕の中に収まっていった。
 ワンバウンドで返ってくると思っていたのだろう。
 女の子は初めのうちは驚いていたのか、しばらく鳳を見つめていたがはっと我に返ったあと、零れんばかりの笑顔でお礼の言葉を述べた。

「サンキュ!!」

 その笑顔を見た瞬間、鳳の心臓がトクンと跳ねた。

「あっ……どういたしまして」

『うわー…かわいい…』

 少し遠めだったが、鳳は相手の笑顔の鮮やかさに思わず見とれてしまう。
 一方ボールを受け取った女の子は、鳳に向かって一度手を振った後くるりと身を翻し髪をなびかせながら軽やかに去って行った。

「…可愛かったなぁ……何年生だろ……っと、やべ!」

 思わず声に出して呟いてしまった鳳は、しばらくの間女の子が立ち去った方向を眺めていたが生物室に行かなければならない事を思い出し、慌てて教室のある校舎へと走っていった。





 その出来事から二週間後。
 授業が終わった後、帰宅しようとしていた鳳は、担任につかまり用事を頼まれてしまった。
 頼まれると断れない性分の鳳は、言われたとおりに用事を済ませた後自宅に帰るべく教室を後にした。
 いつもの時間だと大勢の生徒にまぎれて帰宅するのだが、今日は普段より幾分遅い時間となった為人影もまばらで閑散としている。
 鳳は印象の違う校内に少し違和感を覚えながら、一人廊下を歩いていた。
 靴箱で上履きからローファーに履き替え、校舎を出ようとした鳳は何処からとも無く聞こえてくるピアノの音と歌声に気付きふと立ち止まる。
   
『…合唱部か。そういえば部活どうするか、まだ考えてなかったっけ……』
   
 その音を聞いて、先日入部希望用紙をもらったことを思い出した鳳はどの部活に入ろうかとぼんやり考えながら歩き始めた。
 しばらくそのまま歩いていた鳳だったが、踵に何かがこつんと当たった感触に気付き一旦歩くのを止め自分の足元に目線を落とした。
 するとそこには、黄色いテニスボールが鳳の足にくっつくようにしてぽつんと転がっている。
 それを見た鳳は二週間前の事を思い出し、くすっと笑った。

『…まさかまたあの子だったりして……ってそんな小説みたいなことがそう簡単に起きるわけ無いか……』

 鳳がそんな事を考えていると、後ろのほうから誰かが走ってくる足音が聞こえた。

『持ち主が取りに来たのかな?』

 そう思った鳳は、自分の足元にあっては取りにくいだろうとボールを拾い上げ
持ち主に返そうと後ろを振り返る。
 そして相手の顔を認めた瞬間、驚きのあまり声も出せずその場に固まってしまった。

『?!』

 鳳が二週間前に体育館の前でボールを渡した女の子が、こっちに向かって走って来るではないか。

「わりぃ、そこにあるボール……って、あれ?お前……」

 相手も鳳の顔に見覚えがあったのか、一旦走るのを止め立ち止まる。
 しばらくそのままの状態で考えていたが、この間の出来事と今の状況が被ったのだろう。
 相手はゆっくりと歩き始めた。

「前にバスケボール拾ってくれた奴??」

 相手は鳳に問いかけるが、鳳はというと初めて間近に見た相手から目が離せないでいた。
 ニキビの痕など1つも無い、肌理の細かい透き通るような白い肌。
 鳳の手ならば容易く片手で掴めそうな位の顔には、意志の強そうな眉と少し眦のつりあがった綺麗なアーモンド形の瞳。
 肩甲骨に届くか届かないか位の真っ直ぐに伸びた黒髪には天使の輪が光り、前髪を残したまま後頭部でゆるく結んでいる。

『…あの子だ……』

 ボールの持ち主が自分に近づいて来ているにもかかわらず、鳳はひたすら相手に見入っている。

「また会ったな。こないだはサンキュ」

 そう言いながら相手は笑みを浮かべ、鳳の目の前まで来た。
 本日の格好はポロシャツに膝丈のパンツ。
 パンツの裾からまっすぐに伸びた足は、大きな傷も無く綺麗なものだ。

「お前にボール拾ってもらうの二度目だな。覚えてるか?」

 まさかこんなに早く会えるとは思っていなかった鳳は、相手の姿を認識してはいるがかなり舞い上がっている為声は聞こえているものの、話している内容は理解していない。

「?どうしたんだ?ぼーっとして……」

 鳳の反応が返ってこないことに気付いた相手は、鳳の目の前で手をひらひら振って相手の意識があるかどうか確かめた。

「…目開けて寝てんのか??おい、聞いてんのかよ?」

 さすがに不審に思ったのか、鳳の目の前まで来ていたボールの持ち主はおもむろに手を伸ばして鳳の腕を掴んだ。

 ボールをやんわりとしか掴んでいなかった鳳は、我に返ったと同時に腕を掴まれた弾みで相手に渡すはずだったボールを取り落としてしまう。
 肝心のボールは鳳の手からこぼれ落ち、まるであざ笑うかのようにコロコロと転がっていった。

「…あっ、すみません…考え事してたもんで…」

 ボールを取り落としてしまった事と、腕を掴まれるほど至近距離に相手が来ていたのに気付かなかった鳳は動揺しつつも慌てて落としたボールを拾い、ようやく持ち主の手に渡した。

「…いや、まあいいけどよ…つーか、そんなになるほど何考えてた訳?」

 鳳がようやくまともな返事をした事に安堵したのか、先ほどより幾分か雰囲気を和らげた持ち主はボールを手の中で転がしながら、心持首をかしげて鳳を見上げた。
 多分癖なのだろう。自分より高い位置にあるものを覗き込むとき、少し首を傾げて上目遣いになり瞬きの回数も増えているようだ。
 間近で見てわかったが、睫毛もかなり長い。髪と同じで直毛なのか、注意してみないと判らないくらいだが。

『う、やっぱりかわいいなぁ…』

 鳳がほとんど初対面の人間に対して、こんなに感情を持つのも初めてで。
 だからといってまさか『あなたに見とれていました』…なんてさっきまで考えていたことを馬鹿正直に言える筈もなく。
 何て言い訳しようと思考を巡らせていた鳳だったがボールを拾う経緯に至るまでに『何部に入ろうか』と考えていた事を思い出し、それを口にしようとした。
 すると何を思ったのか、少し背伸びをした相手が突然鳳の頭にぽふっと手を乗せてきた。
 何の前触れも無く唐突に頭を触られた鳳は、相手が何をしたいのかいまいち意図が掴めずに動きを止めてしまう。
 しかしそんな状況に陥っている鳳に気付いていないのか、ボールの持ち主は何事も無かったように普通に話しかけてきた。

「あん時も思ったけど、お前ホントでかいなぁ…いったい何センチだよ?」

 2、3回鳳の頭をポフポフと軽く叩いた後、すっと離れていく相手の手をぼんやり見送っていた鳳はとりあえず投げかけられた質問に答えるべく口を開いた。

「え…あ…っと、175…位です」

「1年で175?!…んだよそれ…何食ってそんなにでかくなんだ?!」

「はぁ…すみませ…って、あれ??」

 別に謝る云われは無いのだが、なんとなくその場の勢いで謝ろうとした鳳は、相手の『1年』と言う言葉に引っかかり途中で謝るのを止めまじまじと相手の顔に見入ってしまう。

「あの…俺、学年言いましたっけ?」

「いや。名前も知らねぇな」

 相手は『それがどうした』と言わんばかりにあっさりと返す。

「…1年6組の鳳長太郎です。ところでどうして俺が1年って判ったんですか?」

「お前アレだろ。一つの事に集中すると周りが見えなくなるタイプだろ」

 鳳のほうが質問しているというのに、相手はそれには答えず鳳を指差してそんなことを言う。

『自分のほうこそ周りが見えなくなるタイプじゃないのか?』

 と思いつつも雰囲気からして、おそらく自分より年上であろう先輩にそんなことを言うのも憚られ、だからと言って指を突きつけられたまま答えるのもなんだかなーと思った鳳は相手の手首をやんわりと掴んで下ろさせながら答えた。

「考え出すとその他がおろそかになると言われたことはあります……で、先輩は何で判ったんですか?」

「カン」

 鳳の目を真っ直ぐ見上げながらきっぱりと言い放った相手は、心なしか満足そうだ。

「………はい?」

「カンだよ、カン。…何だよその顔は」

 自分でも気付かないうちに変な顔でもしていたのだろうか。
 鳳は慌てて空いているほうの手で自分の顔をペタペタ触って確かめてみた。

「…ぷっ。何だよお前…面白いやつだなぁ」
 
 鳳の行動を目の前で見ていた相手は、どうやら笑いのつぼにヒットしてしまったようだ。
 最初は笑いをこらえていたようだが、次第に押さえきれなくなったのか、ケタケタと声を出して笑い始める。
『あ…笑うと左側に笑窪出来るんだ…かわいいなぁ……名前なんて言うんだろう……』
 相手の顔を見つめながらぼんやりとそんなことを考えていたが、いつまでもそのままにしているわけにもいかない。
 鳳はとりあえずこの場を何とかしようと口を開いた。

「…そんなに笑うこと無いじゃないですか」

「わりぃわりぃ…あーおかしかった。こんなに笑ったの久々だぜ」

 まだ笑いが収まりきらず、目尻にたまった涙を人差し指で拭いながらクスクスと笑っていた相手だったが、突然何を思いついたのか、悪戯を企む子供のような眼で鳳の顔を見上げてきた。
 そのくるくる変わる表情に、再度見とれてしまった鳳は
『…あーまじでやばいかも…今まで一目惚れなんてした事無かったんだけどなぁ…俺って意外に熱いやつだったんだ…』
 とか何とか考えていたのだが、その思考をさえぎるかのように相手が次の質問してきた。

「で、その鳳君は何を考えてたわけ??」

 …また話が飛んでいる。

 あまりの話の飛躍に脱力しかけた鳳だったが、この短い時間で相手の思考の飛ばし方に慣れたのか、 まあこれも仕方の無いことなのだろうと諦めて、先ほど口にしかけた事を話した。

「部活、何に入ろうかと考えてました」

「へー。で、何に入るんだ?その身長を活かしてバスケ部とかバレー部あたり?
 …まあうちはどこの部もそこそこ強いから、ハズレは無いと思うけどな」

 まったく考えてもいなかった部活名をポンポン出され、少々面食らった鳳はしばらくの間ポカンと相手の顔を見つめた。
 その態度を見て違うと判断したのか、相手は鳳のことなどお構い無しに次々と違う運動部の名前を出してくる。

「何だ、違うのか?…んじゃあどこだよ。野球部…じゃあないよな、水泳部か…わかった!弓道部だろう!!」

 一生懸命に鳳の希望する部活を当てようとしている姿は笑みを誘うものだったが、どんどん話が違う方向にエスカレートしていくのを止めないで、誤解させるのもなんだかまずい気がする。
 期待に応えられないのは残念だが、鳳は正直に自分が入ろうと考えていた部活名を告げた。

「…期待を裏切ってすみません。俺、オケ部か、音楽部に入ろうかと考えてたんですけど…」

 今度は相手のほうが面食らってしまったようだ。
 まあ確かに、鳳の外見を見たら運動部と勘違いするのも仕方の無い事かもしれない。
 中学1年にして身長175センチ。母方の祖母がドイツ人であることもあり、なにぶん成長期のため、若干細身ではあるが肩幅はしっかりとしており、骨格もほぼ完成している。
 髪は色素が薄く、少し癖のある柔らかい猫毛で、瞳の色もわずかにグリーンがかったヘーゼルだ。
 顔立ちは柔和で優しげだが、声変わりもとうに終えており、子供らしさが残っている所といったら、頬の輪郭などが幾分丸みを帯びてふっくらしているといったところくらいだろうか。
 全体的に見ると大人びた印象になる鳳だったが、感情表現が豊かなのでそれを表に出した途端年相応の容貌になる。

「…いや、別にお前が謝ることじゃねぇよ。なんか楽器とかやってたのか?」

 一瞬あっけにとられていた相手だったが、気を取り直したのか質問の続きをし始めた。

「はぁ。ピアノとバイオリンを幼稚園の頃からやってます」

「ふーん。そっか…だからお前の指長くて綺麗なんだな」

 そう言いながら掴まれていた自分の手ごと、鳳の手をひょいと持ち上げて見せた。

「で。いつになったら手を離してもらえんのかな?鳳クン?」

 再び悪戯っ子のような色を滲ませた眼で鳳を見上げた相手に言われ、ようやく手を掴んだままだったのを思い出した鳳は、慌てて手を放した。

「あっ…すみません。痛かったですか?」

「んー?別に痛かねーよ」

 そう言った相手は、掴まれた場所に目をやった。
 鳳はそんなに力を入れて握ったつもりは無かったのだが、跡が付きやすい体質なのか掴まれた部分がうっすらと紅くなっている。
 それを見た鳳は申し訳なさそうに謝った。

「…すみません…」

「大丈夫だって言ってんだろうが………お前、さっきから謝りっぱなしだぞ?わかってんのか?」

 少し呆れたような口調でそんなことを言われてしまう。

「…本当にすみません……」

 しかし女の子の肌に、すぐに消えるとはいえ跡を付けてしまった鳳は、いくら本人に『大丈夫』と言われても『はいそうですか』と流すことは出来なかった。
 その煮え切らない態度に業を煮やしたのか、相手がいきなり手を上げて再び鳳の頭の上に置き、今度はぐしゃぐしゃとかき回した。

「…お前なぁ…」

 やばい。謝り過ぎたせいで怒らせてしまったのだろうか。

「その捨てられた犬っコロみたいな顔すんなっつーの……やられた本人が大丈夫って言ってんだから気にすんな!」

 ………捨てられた犬っコロ??

「…俺、そんな顔してましたか?」

「ああ。してた。100人がその顔見たら、間違いなく99人はそう言うだろうな」

 あっさりと即答で返されてしまう。

「…捨てられた犬っコロは酷いです…」

 少しイジケタ気分で呟いた鳳の声が聞こえたのか、相手はこれまた速攻で切り替えしてくる。

「酷かねぇよ。かわいいだろうが、犬っコロ。そんなの見たら拾って帰っちまうぜ?」

 そうか?そういう問題なのか??というか俺を拾って帰りたいって事なのか???
 またもや悶々と考え込んでしまった鳳を尻目に、相手はまた話題を振ってきた。

「で、だいぶ話が脱線しちまったけど、ホントのとこお前どの部活に入るんだ?」

「え?…あぁ、オケ部にしようかと思ったんですけど、家でも学校でも音楽漬けっていうのもなぁ…って思って」

 話を振られてようやく落ち着きを取り戻した鳳は、今自分が思っている心の内をそのまま話した。

「何で?幼稚園からずっと続けてるくらい音楽好きなんだろ?お前。だったら別にかまわねーんじゃねぇの?」

 よほど疑問に思ったのか、間髪いれずに返事が返ってくる。

「んー…嫌いじゃないんですけど、気付いたらやっていたというか……家、両親とも音楽関係の仕事してるんで、必然的にそうなっちゃったんですよ。
なまじ弾けちゃったもんで小さい頃は期待されもしましたけど………」

「けど?」

「『技術は申し分ない。でも教科書どおりじゃ先は見えてる。』って。バッサリと親に言われました」

 その言葉を聞いた途端、相手はまるで自分がその場にいて同じ事を言われたように、顔を顰めて俯いてしまった。

「…わりぃ。辛い事思い出させちまったな…」

「…いえ。でも確かにそのとおりでしたから」

 確かに言われたときはそれなりにショックを受けた。
 しかしこれといったものを持たず、楽譜通りにただ弾いているだけだった鳳が音楽に対しての情熱みたいなものを持ち合わせていなかったのもまた事実だった。

「天狗になってたつもりは無かったんですけどね…でも俺も今よりまだ子供で、同じ年代の子に比べたら弾けてた方だったんですよ。
でもホントはただ弾けていただけで、何をどうしたいとかどんな風に弾きたいとか、そういったものが俺には無かった。
書いてあることや注意されたことを忠実に再現していただけだったんです」

「………」

「すみません。くだらない話聞かせちゃいましたね……忘れてください」

 ほぼ初対面の人間に、こうもボロボロと昔の話をしている自分にも驚いた鳳だったが、さすがに相手もこんな重い話されても返事に困るだろうと思い、切りのいいところで話しを止めた。

「………く」

「…はい?」

 今まで俯き加減だった相手が、急に顔を上げて鳳を見上げてきた。

「音楽…嫌いになったのかよ?」

 そんな質問が帰ってくるとは思っていなかった鳳は、眼を見張って相手の顔を見つめ返した。

「どうなんだよ?」

 なんだか聞いている本人のほうが今にも泣き出しそうな、辛そうな顔をしている。
 その顔を見た鳳は、なんだかくすぐったい様な、胸の奥がふわりと暖かくなる様なそんな感覚を覚え、知らず微笑を浮かべながら答えた。

「…嫌いじゃないですよ。むしろ気付かせてくれたことに感謝しています。
俺…本気じゃなかったんですよ。ピアノも、バイオリンも。
多少なりともそう思っていたんだったら、あの言葉を言われた時点で悔し泣きくらいしてたでしょうしね」

 相手は真摯な眼差しで、鳳の真意を汲み取ろうと一生懸命瞬きもせずに見つめ続けている。

「俺、やっぱり音楽系の部活に入るのやめて、ほかの部活にでも入ります。
今までと違うことをしたら、俺の中で何かが変わるかもしれないし………
あ、でもピアノとかバイオリンをやめる気は無いですから」

 最初はこわばった顔をしていた相手だったが、鳳の言葉を最後まで聞き終わると、ホッとした様子で手に握り締めたままだったボールを地面に当ててバウンドさせ、再び帰ってきたボールを手で受け止め再度握り締めた。

「…そっか。良かった…」

 呟くような声だったので聞き取りにくかったが、確かに『良かった』と聞こえた。

「??何でですか??」

 今度は鳳のほうがその言葉の意図がわからず、疑問に思って相手に聞き返す。

「…いや…お前の手、あんまり綺麗だったから……一回くらいピアノとか聞いてみてぇなーって…」

 そう言いながら、ボールの持ち主は頬を僅かに紅く染め、鳳を見上げて少しはにかんで微笑んでみせた。
 その顔を見た鳳も、同じように顔を赤らめながらそんな様子の相手に見入ってしまう。

『あー…。完璧に嵌った。どうしよう、マジでやばい。今すぐ抱きしめたいんだけど…
いきなりそんなことしたら変態とも思われかねないし…あーどうしよう俺?!』

「…鳳?」

 急に黙り込んでしまった鳳を不審に思ったのか、相手はますます近くに寄って来て顔を覗き込もうとする。
 鳳の顔はますます赤くなるばかりで、まったくほてりが収まらない。
 とりあえずこの状況を脱するには何か話題を振らないとと思い、さっきの話の続きを思い出して返事を返した。

「…あ、じゃあ今度聞かせてあげますよ。期待に応えられないかもしれませんけどね」

「大丈夫、んなこたねーって!」

 相手はそう言いながら左頬に笑窪を作り無邪気に笑いかけてくる。
 その笑顔を正面から見つめながら、まだ名前を聞いていなかったことを思い出した鳳は、名前を教えてもらおうと口を開きかけた。
 するといきなり相手が『あっ!』と声を出して鳳の左腕を掴んで、自分のほうに勢いよく引き寄せた。

「??????」

「今何時?!……うっ!何でこの時計文字盤が二個もあんだよ!!どっちだよこれ!!」

 どうやら鳳の腕時計が見たかっただけらしい。
 時間を知りたかっただけとはいえ、相手から自分に触れてくれたことがなんだかうれしい鳳だった。

「えっと…4時32分位ですけど……」

 鳳が時間を告げた途端、相手は盛大なため息をつきながら額に手を当て空を見上げた。

「あちゃー…マジかよ…」

「?どうかしたんですか??」

「…4時半から監督が来るからミーティングするぞって言われてたんだよ」

 現在時刻4時32分。ほんの僅かだが過ぎてしまっている。

「あっ…俺が引きとめたから……すみません、大丈夫ですか??」
  
 鳳は心底申し訳なさそうな顔をして項垂れてしまう。
 それを見た相手は苦笑しながら鳳の頭をポフポフ叩いた。

「…ったく、またそんな顔すんじゃねーよ。ホントにつれて帰っちまうぞ?それにお前だけのせいじゃねーよ。
こっちも引き止めたし。な、おあいこだろ?だから気にすんな!」

「……でも、罰則とかあるんじゃないですか?」

「ん?…あぁ、そうだな…グラウンド30周ってとこだろ。辞めさせられる訳じゃねぇからたいしたことねーよ」

 さらりと本当になんでもないことのように言うが、テニスコートのある第2グラウンドは1週400mだ。
 いくら辞めさせられないとはいえ、テニスがよほど好きでなければ30周なんて耐えられないだろう。
 不測の事態で遅刻したとはいえ、その原因の半分は鳳のせいでもある。

「30周?!…それってどうにもならないんですか?なんか特別に理由があれば許されるとか…」

「んーー……先生に呼び出し食らったとか、用事頼まれたとか……来客の道案内してたとかくらいか?」

 言い訳などほとんどしたことが無いのだろう。相手はその三つのことを思い出すのにしばらくかかった。
 そして鳳はというと、その三つの理由を聞いて少し考え込んだあとおもむろに口を開いた。

「先輩、俺を連れていってください」

 唐突な鳳の発言を聞いた相手はポカンと口をあけ、零れんばかりに眼を見開きまじまじと鳳を見つめる。

「はぁ?何言ってんだお前??話が見えねーよ」

 『あなたにだけは言われたくないです』…なんて思わず突っ込みたくなったが、ここで突っ込んで相手の機嫌を損ねるのもまずいので、鳳はとりあえず話を続けた。

「先輩はボールを捜しにここまで来た。そしてそこで1人の新入生に出会った。そこまではいいですね?」

「?おう、なんだかわかんねーけど、そのとおりだ」

 話は見えないが、それは事実なので相手はとりあえずこくりと頷く。

「そこで出会った新入生は、テニス部に入部希望を出すため第2グラウンドに行こうとしていた。
しかし氷帝学園は第3グラウンドまである上、入学したてで敷地を完全に把握していない新入生にとっては迷路みたいなもの。
それを見るに見かねた先輩は、親切にも迷子の新入生をテニス部のある第2グラウンドに連れて行こうとします」

「……ふーん…で?」

「しかしそこで、その新入生が入部希望用紙をうっかり教室に忘れてきたことに気付きます。
仕方ないので希望用紙を取りに教室まで戻り、それから再び案内するのに時間がかかった……というのはどうでしょう?」

「……お前すごいな。あんな短時間でそこまで考えたのかよ……」

 相手はよほど感心したのか、口を半開きにしたまま呆然と鳳を見上げていたが、はっと我に返り、ものすごい勢いで鳳に質問してきた。

「お前用紙って持ってんのか?!つーか、テニス部に入部するって……そんな簡単に決めていいのかよ?!」

 詰め寄るようにして相手が聞いてきたので、鳳はきちんと解って貰おうと相手の瞳をじっと見つめながら答えた。

「はい。用紙はここにちゃんとあります。
テニス部に決めたのは、30周の罰則も苦にならないくらい先輩が好きなテニスだったら、俺も夢中になれるかなって思ったんです。
一応小さい頃から、軽い運動程度ですけどテニスはやってましたし……
それとも、そんな理由で入部したいって言うのは駄目ですか?」

 鳳にもし耳と尻尾が付いていたら、どこから見てもご主人様からおあずけを食らったまま、ひたすら待ち続けている大型犬に見えただろう。

「うっ、いや…そういうわけじゃねーけど…………だから、犬っコロみたいな目で見んなっつーの!!
…………お前、ホントにそれでいいんだな?後悔しないな?」

 あまりにも真剣な鳳の眼差しに、最初は口ごもっていた相手だったが、鳳の想いが通じたのか、最後は念を押すように聞いてきた。

「はい!もちろん後悔なんてしません!」

 鳳は満面の笑みを浮かべ、元気よく返事をした。その笑顔を見て、相手も鳳と同じく満面の笑顔で応える。

「…よし、んじゃあ行くか。いくら案内して遅くなったつっても10分が限度だからな。…でもお前運がいいなぁ。
監督に直接渡したら、明日から参加できるぜ?」

「そうなんですか……俺ってホント運がいいですね。そういえば監督って誰なんです?」

「あー、音楽の榊だよ」

「へー、あの先生テニス部全体の総監督なんですか」

 音楽教師の榊が男子テニス部の監督だということは、かなり珍しいと思ったので良く覚えていた鳳だったが、女子テニス部も見ていると聞いたのは初めてだった。

「はぁ?榊はうちの監督だぞ?女テニの監督は別にいるだろうが」

「え?うちのって……」

『こいつ聞いてなかったんかい』という表情の呆れ顔で相手はもう一度繰り返し答えてくれた。

「ぼけてんのか?榊は男子テニスの監督だって言ってんだよ」

【うちの監督→榊→男子テニス部監督】

 ……しばし待つこと5秒。
 『…一目惚れだと思った相手が男だったなんて……』鳳はショックの為、今日何度目かわからないがまた固まってしまった。

「…なんだ?榊が監督だと何かまずい事でもあんのか??」

 たった20分という短い時間で、何回固まったかわからない鳳にも慣れたのか相手は同じように首を傾げ、瞬きをしながら鳳の顔を見上げてきた。
 その顔を間近で見た鳳は、男とわかっても変わらず抱きしめたいと思ってしまった自分に気付く。
 『こーいうのが本当に《嵌る》って事なんだろうな…』とぼんやり思いながら返事をした。

「………いえ、無いです。全然」

「そっか?ならいいんだけどよ……」

 相手は、いまいち腑に落ちないようだったが、時間が無いのもわかっていたのでその話を切り上げ、ぱっと鳳の手をとり第2グラウンドに向かって走り出した。

「??えっ??ちょっ……」

 相手に突然手を掴まれ、驚きと嬉しさが同時に鳳を襲う。

「ほら!鳳!!時間ねーんだからちゃっちゃと走る!!」

「あっ………はいっ!」

 うっすら頬を紅く染めた鳳は、相手に引き摺られるようにして走り始めた。
   
 50mくらい走った所で、相手は何か思い出したのか『あっ』と声を上げて振り返り
鳳が見とれたのと同じ鮮やかな笑顔で告げた。

「2年2組、宍戸亮だ!よろしくなっ!!」

「……はいっ!!こちらこそよろしくお願いします!!!」




 鳳長太郎十二歳。
 相手が異性だろうが同姓だろうが、一目惚れって言うのはあるものなんだなぁと実感した瞬間だった。



●おわり



○ ひまわりの家から自宅に帰る電車(山手線)の中で考えたネタです。ヒマだったものでこんなもん考えちゃいました。あはー。初めて書いた小説なので生暖かい目で見守っていて下さるとありがたいかと…/睦月あじさい
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